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<title>東亜の葉っぱ　読書系ブログ</title>
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<title>電話口でのお客様対応の良い教材を見つけました</title>
<description> http://www.nicovideo.jp/watch/sm7255107電話対応とお客様サービスの良い勉強になります。この機会に貴社・貴機関の電話対応サービスの見直しをしてみてはいかがでしょう。
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<![CDATA[ <a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm7255107" target="_blank" title="http://www.nicovideo.jp/watch/sm7255107">http://www.nicovideo.jp/watch/sm7255107</a><br /><br /><br /><br /><br /><br />電話対応とお客様サービスの良い勉強になります。<br /><br />この機会に貴社・貴機関の電話対応サービスの見直しをしてみてはいかがでしょう。 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2009-06-06T07:41:24+09:00</dc:date>
<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>【022】ミハルコフ『12人の怒れる男』　/  ロシアの怒れる男</title>
<description> 12人の怒れる男(2009/01/23)ニキータ・ミハルコフセルゲイ・マコヴェツキイ商品詳細を見る　以前のエントリーでルメット版の『十二人の怒れる男』について書いたが、こちらは同じ構図の事件を扱いながら、陪審員の議論過程や主題は全く異なる映画。はじめ自分は性質の悪いパロディジョークの映画なのか、と勘違いしたのだが、それほどまでに議論も８号陪審員の主張も異なっている。　つまり、ルメット版の陪審員たちは感情的な部分
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<![CDATA[ <table style="width:75%;border:0;" border="0"><tr><td style="border:none;" valign="top" align="center"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001ISEMP2/fc2blog-22/ref=nosim/" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Hc11lyX-L._SL160_.jpg" alt="12人の怒れる男" border="0"></a></td><td style="padding:0 0.4em;border:0;" valign="top"><a href="http://blog.fc2.com/goods/B001ISEMP2/fc2blog-22" target="_blank">12人の怒れる男</a><br />(2009/01/23)<br />ニキータ・ミハルコフセルゲイ・マコヴェツキイ<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001ISEMP2/fc2blog-22/ref=nosim/" target="_blank">商品詳細を見る</a></td></tr></table><br /><br /><br /><hr size="1" /><br /><br /><br />　以前のエントリーでルメット版の『十二人の怒れる男』について書いたが、こちらは同じ構図の事件を扱いながら、陪審員の議論過程や主題は<strong>全く異なる</strong>映画。はじめ自分は性質の悪いパロディジョークの映画なのか、と勘違いしたのだが、それほどまでに議論も８号陪審員の主張も異なっている。<br /><br /><br />　つまり、ルメット版の陪審員たちは感情的な部分を持ち合わせながらも、理性的で論理的、冷静な土台を持った議論を続け、事件に対して「合理的な疑い」があるかないかを様々な角度から検証していった。これに対し、ミハルコフ版の陪審員たちは「合理的な疑い」などには殆ど関心を払ったりはしない。人生経験や狭隘な「常識」が色濃く議論に反映され、「事件検証」が進んでいく。自分の両親の結婚について、自分自身が人生で感じたこと、ロシア社会の問題点、そんなことを取りとめも無く話ながら当該事件に「共通項」を当てはめていくのだ。一見すると、非論理的な議論であり、私がパロディジョークだと錯覚した理由もお分かり頂けるだろう。<br /><br /><br />　陪審員の面子は、現在のロシアを批判しソビエト時代を懐かしむもの、カフカス出身のもの、ユダヤ人、資本家といったようにロシア社会の各層を代表する面子を用意している。ルメット版のそれが「どこにでもいる普通の人」を演出しているのに対し、ミハルコフ版は代表的立場を持つ人物たちを登場させ皮肉として利用しているのかもしれない。この映画は「ロシア」を表現の対象とし、「ロシア」を特徴付けようとしており、ロシア社会が抱える問題点やロシアの国民性を映し出そうとしているのだから、そのための措置なのだろう。<br /><br /><br />　自分は「法より慈悲」が大切であるとする最後の引用句が強烈に印象に残った。最後の「小鳥のシーン」、「イコン」のシーンなど難解な部分も多い。「ロシア的父性」を善いものとして扱い、慈悲深さや包容性を映しているのだから、一見するとチェチェンに向けた政治的メッセージのようにも考えられるし、実際にそう主張する映画評もある（「チェチェンは父なるロシアの下にあるべし」、というメッセージ？）。<br /><br /><br />　繰り返すがこれは明らかにルメット版とは異色の、「ロシア」を扱った映画である。先に「合理的な疑い」が殆ど関心の埒外に置かれていることを述べたが、<strong>こちらは法廷サスペンスというよりロシア風刺の映画なのだ</strong>！<br /><br /><br /><hr size="1" /> ]]>
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<dc:subject>議論・コミュニケーション</dc:subject>
<dc:date>2009-03-29T21:10:18+09:00</dc:date>
<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>小沢民主党代表の違法献金問題について　/  麻生著作販促運動</title>
<description> 　本当に理解が出来ないのは何故民主党議員（および民主党シンパ）は小沢を責めずに検察を責めるのかということろだ。先ほど、TV番組で民主党議員が「検察は公正中立の捜査をすべきで、今回の事件は同時捜査をしていないのだからトンデモナイ」という主旨の意見を述べていた。自民党に対して捜査の手が伸びたことは勿論歓迎すべきことだし、事件関係者全員に対して捜査すべきではあるが、どうにも異常な擁護にしか聞こえない。　私
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<![CDATA[ 　本当に理解が出来ないのは何故民主党議員（および民主党シンパ）は小沢を責めずに検察を責めるのかということろだ。先ほど、TV番組で民主党議員が「検察は公正中立の捜査をすべきで、今回の事件は同時捜査をしていないのだからトンデモナイ」という主旨の意見を述べていた。自民党に対して捜査の手が伸びたことは勿論歓迎すべきことだし、事件関係者全員に対して捜査すべきではあるが、どうにも異常な擁護にしか聞こえない。<br /><br /><br />　私が検察官であったら、事件の悪質性・重大性、立件のし易さ、証人の保護の緊迫度、証拠の有無、時効までの期間などを吟味して捜査に優先順位をつけ捜査をする。もちろん、疑惑の対象には公平に目を配るが、逮捕や事情聴取の順番、捜査への投資に差をつけるのは当たり前の話ではないか。<br /><br /><br />　今回の事件においては西松側の捜査に絡み、以前から小沢氏周辺について疑いの目がそそがれていたというし、西松側から相当の情報が引き出されてもいる。秘書が自殺する可能性があり、時効までも間が無かったようだ。報道されている限りでは事件内容も違法献金について事前協議がなされており悪質・重大なものであると判断せざるを得ない。選挙時期がどうのというが現在は解散時期も不明瞭であって、検察が選挙期間中の逮捕を避けた配慮すら私には窺われる。検察を非難する材料に乏しく、小沢氏を非難する材料には事欠かない状況である。<br /><br /><br />　このような状況を目の当たりにしてさえ、民主党議員の中には前述のように小沢批判ではなく検察批判にひた走るものがいる。衆院選に絡み、集金力が強く「党の顔」として印象強い人物を立てていきたい気持ちは分かるが、これをこのままで放置しておくというのはあまりにも異常な話ではなかろうか。まして検事総長に対する事情聴取など馬鹿馬鹿しいにも程がある。民主党が現在捜査中の事件に対して圧力を掛けようとしている構図になり、司法と国会との距離、権力のあり方にとって逆に危険性があるように私には思われる。<br /><br /><br />　正直、私は次の選挙は民主党に勝ってもらわなくては困ると思っていたのだが、この有様ででは不安が増してどうしようもない。<br /><br /><br /><hr size="1" /><br /><br /><br /><br />　２chを中心に麻生首相の著作の販促運動が盛り上がっている。政権担当者の書いた書籍を読むというのは好ましいことであるし、他人が何を買おうが全くの自由ではあるが、勝手ながら個人的な注文をつけてみたい。<br /><br /><br />　まず、示威行動で終わってしまっては何もならないということである。また、麻生首相の著作を読み麻生を支持する、というのも足りない。確りと書籍の内容を吟味し、現政権・麻生首相の成果と足跡をつき合わせて読んでもらいたいということである。<br /><br /><br />　示威行動には示威行動で意味があり、価値がある。マスメディアの麻生批判には異常なものもあり、それに対するアンチテーゼとして購入することで麻生支持を見せ付ける意味という目的は共感できる。本を買うことで首相の著作ランキングの順位が上がっていく。これもランキングが購入と注目度を示すものであることを考えれば、本来の目的から逸脱したものとはいえない。手段も穏便である。だが、本を買うだけでは片手落ちではなかろうか。中身を読むことは勿論、その内容について批判し、解釈し、受け入れることが「本そのもの」の価値として重要となってくる。<br /><br /><br />　これらの本、麻生首相が自身の政策や立場を記した本、を読んで麻生信者になることは誰でも出来る。だが、それだけでは足りないだろう。これまでの政権の流れ、麻生首相の成果、社会の状況なども加味し、様々な麻生批判を知り、よくよく麻生という人物を眺めて信をつけるべきではなかろうか。<br /><br /><br />　運動に対するアンチにも言いたい。アンチ諸君は恐れる必要もないし、運動を非難する必要もない。本を買うのはまったくの自由であるし、本を買うことで成される政治行動もありえる。もし、アンチ麻生であるならば自信を持って麻生首相の本を薦めれば良い。買うことではなく中身を批判すれば良いのだ。アンチ麻生に自信があるならば、逆に「麻生」という政治家を皆に問うチャンスになる。恐れることなどないはずである。本を薦め、麻生政権と本との食い違いを指摘し、広報すれば良いだけのことだ。<br /><br />　<br /><br /><br />※人によっては今回の手法は妥当性を欠くという意見があるかもしれない。「ある本を買うという運動によって本屋のランキングが操作されるということは【純粋なランキング表示】ではなく、ランキングに対する妨害そのものである」とする意見だ。だが、私はこれも注目度と購入数を順位付けするという点を示すに何ら変わりは無くランキングの効果を邪魔していないように思われる。実際に麻生首相の本は注目され、購入されているのだから。<br />　 ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2009-03-13T21:32:43+09:00</dc:date>
<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>ちまちま</title>
<description> 停滞
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<![CDATA[ <script type="text/javascript" src="http://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm5648436?w=320&h=252"></script><br /><br /><br /><br />停滞<br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2009-02-21T18:49:58+09:00</dc:date>
<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>【021】山田風太郎　『戦中派不戦日記』　/  東條英機自殺未遂事件の真相を問う③　～世論の反応と私見～　</title>
<description> 　Ｒ・ビュートーは自らの著書における東條自決未遂に関する章でいく種類もの不平不満を持つ人びとが、東條は裁判なしで処刑さるべきである、彼は東京のど真中の日比谷公園の公衆の面前で絞首刑に処せられるべきである。東條夫人は終身禁錮に処すべきである、などと提案してきていた。　とＧＨＱに要望してきた日本人が存在していたことを述べた後に、「自殺以外にはほとんど道がなかったように思われる」と東條の状況を評した。そ
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<![CDATA[ 　Ｒ・ビュートーは自らの著書における東條自決未遂に関する章で<br /><br /><br /><blockquote><p>いく種類もの不平不満を持つ人びとが、東條は裁判なしで処刑さるべきである、彼は東京のど真中の日比谷公園の公衆の面前で絞首刑に処せられるべきである。東條夫人は終身禁錮に処すべきである、などと提案してきていた。</p></blockquote><br /><br /><br />　とＧＨＱに要望してきた日本人が存在していたことを述べた後に、「自殺以外にはほとんど道がなかったように思われる」と東條の状況を評した。そして最後にガースの詩として「名誉の失われし時、死は救いとなる。死は不名誉からの唯一の確実な避難所である」と書いている。これは新渡戸稲造の『武士道』における「自殺および復仇の制度」の章に記された「名誉の失われし時は死こそ救いなれ、死は恥辱よりの確実なる逃げ所」という詩と同じものである。おそらく意識して書かれたのだろう。東條に対する当時の風当たりの強さを窺わせるところだ。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　東條英機元首相の自決決行は翌日の新聞に報道された。当時の人々の日記から、この事件を世間がどのように受け取ったのか、各人の日記から見ていきたい。<br /><br /><br />　まずはじめに、この事件に関連してよく引用される、山田風太郎の日記と高見順の日記を、次いで徳川夢声の日記、細川護貞の日記を提示、これらと異なって東條に同情的な長與善朗の日記、そして河辺虎四朗の回想録を示した後、もう一度、山田風太郎の日記中から別の記述に焦点を当て、最後に私見を述べる。<br /><br /><br /><br /><br /><br />【山田風太郎　『戦中派不戦日記』】<br /><br /><br /><br />山田風太郎<br />『戦中派不戦日記』<br /><blockquote><p>十二日（水）　曇<br />　<br />（略）<br /><br />　○連合軍司令部より逮捕状を発せられた東条大将それを待つことなくピストルを以て自決を計ったが死に至らず、敵幕舎に拘留せられ、アメリカ軍軍医の手当を受けつつありと報ぜらる。<br />「東条大将はピストルを以て……」ここまできいたとき、全日本人は、「とうとうやったか！」と叫んだであろう。来るべきものが来た、という感動と悲哀とともに、安堵の吐息を吐いたであろう。<br />　しかし、そのあとがいけない。<br />　<font color="#0066FF">なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。</font><br />　逮捕状の出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない。<br />　逮捕状は続々と発せられるであろう。それにあたるべき人人はみな自決してもらいたい。<strong><font color="#FF0066">今、百の理屈よりも一の死は、後世に於て千の言葉を以て国民に語りかけるにちがいないのだ</font></strong>。<br />　ただ、出来るならこれらの人々は余命の炎をかりたてて、愚かな自己弁護のない本戦争の真相を書き残し、信頼し得る側近の日本人に秘密裡に託しておいて欲しい。</p></blockquote><br /><br /><br /><blockquote><p>十三日（木）　曇<br />　<br />　杉山元本土防衛総司令官自決。夫人殉死。杉山夫人、戦争中東条夫人のごとく人の目に立つことなし。<strong>しかし東条夫人は恬然として生き、ひそやかなる杉山夫人ひそやかに死す。されどその婦道燦たり。</strong><br />　されど死にし幾十万の兵の母、妻を思わば、軍の責任者の妻として是非もなし。</p></blockquote><br /><br /><br /><br /><blockquote><p>十七日（月）　雨<br /><br />　　米国新聞が、日本の指導者にだまされるなとさけんで、こんなことをいっている。<br /><br />「米国人は東条こそ戦争の元凶であり、侵略政策の張本人であると思っているが、日本人はそうは考えてはいない。東条は日本の歯車の一つに過ぎない。真の指導者は依然として日本の指導権を握っている。」<br /><br />　アメリカ人は、東条大将をヒトラーに匹敵する怪物に考えているらしいが、これは滑稽である。日本人は東条大将を、戦争中も現在も、唯一最大の指導者であったとは考えていない。一陸軍大将だと思っているに過ぎない。<br />　ただわれわれが東条大将にいさぎよく死んで欲しかったのは、彼に対する恨みでも責任転嫁でもなく、<font color="#FF0066">アメリカがそう見ているから、そういう代表的日本人に敵の裁きを受けるような恥辱を見せたくないし、またこちらも見たくないからそう念願したのである。</font><br />　が、とにかく東条大将はこれからも敵から怪物的悪漢と誹謗され、また日本の新聞も否が応でもそれに合わせて書きたてるであろう。<br />　<strong>東条大将は敗戦日本の犠牲者である。日本人はそれを知りつつ、日本人同士のよしみとして、彼が犠牲者の地に立つことを、敵と口を合わせて罵りつつ、心中方斛の涙をのんで彼に強いるのである。</strong><br />　しかし彼の人間と存在意義は、遠い後に歴史が決定するであろう。</p></blockquote><br /><br /><br /><blockquote><p>十九日（水）　快晴<br /><br />（略）<br /><br />　東條でもそうである。「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ」と彼はいっているそうである。それならばそれでよい。卑怯といわれようが奸臣といわれようが国を誤ったといわれようが、<font color="#FF0066">文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。ならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか</font>。<br />　<strong><font color="#FF0066">「生きて虜囚の辱めを受ける事なかれ」と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。今の百の理屈より、一つの死の方が永遠の言葉になることを知らないのか。</font></strong><br />　東條大将や鈴木大将の価値は後世の史家に待つとしても、この死に対する踏み切りの悪さだけはどうにもいただきかねる。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　山田風太郎はこの事件に対して度々日記に記し、東條へ否定的評価を下している。「代表的日本人」と見られている人間が「敵の裁判を受ける」という恥辱を受けることを危惧し、「死」が理屈などよりも後世へと語りかけるものなのだから自決せよ、と書いている。<br /><br /><br />　ここでは後述の徳川夢声や高見順の日記と同じく、当事者でなく内幕を知らない人々のため、「なぜ当日まで生きていたのか」「なぜ切腹をしなかったのか」「なぜ自殺したのか」といった疑問を持っていることも分かる。これらの疑問に対する回答としては当ブログの「<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html " target="_blank">東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言自殺か否か　（前編）</a>」と「<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-47.html " target="_blank">同　（後編）</a>」、また「<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-1.html" target="_blank">東條英機自殺未遂事件の真相を問う①　使用されたピストルが「２２口径」であるか否か</a>」をご参照頂きたい。決して非難できる理由ではない。<br /><br /><br /><br /><br /><br />【高見順　『敗戦日記』】<br /><br /><br />高見順<br />『敗戦日記』<br /><blockquote><p>　志賀さんは情報局へ行かれるとのことで、渋谷からみんなはまた同じ地下鉄のホームへ行った。<br />　人が東京新聞の夕刊を読んでいた。のぞくと、東条大将重態とある。私はここではじめて東条大将の自殺を知らされたのである。その話を私はした。そしてそういう話になって<br /><strong>「やっぱりどうも同情は持てないね」<br />　と志賀さんは言った。</strong>穏やかな、いい言葉であった。<strong>もし私が東条大将の自殺を朝刊で前もって知っていたら、きっと激した、飛び出た、浅間しいことを言ったに違いないと思った</strong>。<br /><br />　虎ノ門で志賀さんと別れた。<br />　新橋で川端さんが切符を買うため、長い行列のうしろに立つと、私は夕刊を買おうと思って、駅の外に出てみたが、いつも売っているところに売り手がいなかった。どこにも売り手が見えなかった。<br />　歩廊で他人の新聞をのぞくと、東条首相の時の閣僚が戦争犯罪人として逮捕されたという記事が見えた。ビルマ大使その他の名も見えた。<br />　家へ帰って大急ぎで新聞を見た。東条大将の記事が出ている。<br /><br />（読売新聞）<br />東条大将自決　<br />　聯合軍側からの抑留命令直後<br />　　昨午後自邸で拳銃で危篤<br /><br />　期するところあって今まで自決しなかったのならば、<font color="#0066FF">なぜ忍び難きを忍んで連行されなかったのだろう。なぜ今になってあわてて取り乱して自殺したりするのだろう。</font>そのくらいなら、<strong><font color="#FF0066">御詔勅のあった日に自決すべきだ。生きていたくらいなら裁判に立って所信を述べるべきだ。</font></strong><br />　醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなっている。恥の上塗り。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　上記中における「志賀さん」は志賀直哉のことであり、当日、高見は川端康成とともに志賀邸を訪れていた。志賀は単に「同情はもてない」としているのに対し、高見は「裁判を受けるべきであった」のに「慌てて自殺したのはケシカラン」としている。前述の山田風太郎が「自殺すべきだ」とする意見に対して、高見順の「裁判を受けるべきだ」とする意見に大きな相違が見える。東條がこの２つの方途について悩んだ如く、世間でもこれについて別々の意見が存在したことがわかる。<br /><br /><br /><br /><br /><br />【徳川夢声　『夢声戦争日記』】<br /><br /><br />徳川夢声<br />『夢声戦争日記』（９月１２日の記述）<br /><blockquote><p>　国定少佐の立派な死に対して、今朝の新聞に出ている東条大将の自決ぶりは何たることであるか。<br />一、死ぬならもつと早く死ぬべきであつた。生きていたからには、堂々と戦争犯罪人審判の法廷に立つて、所信を披瀝し、極力責を負い、陛下に御迷惑の及ばぬよう陳弁して、それから自決するなり、刑の執行を受くるなりすべきであつた。<br />一、Ａ兵が捕縛に来てから、さて自決などはなつていない。<font color="#0066FF">一日延ばしにドタン場まで生き永らえていたのか？</font>一、<strong><font color="#0066FF">ピストルで腹を射つなんて、凡そこれは前代未聞であろう。</font></strong>腹を打つて即死出来ぬくらい百も承知の筈だ。それでいて、駆けつけた新聞記者に、切腹よりもピストルの方が遣り損じない、一思いに死ねるから、そうしたと述べている。<br />一、一思いに死ぬことを望んだくせに、新聞記者に向つて長々と、愚にもつかない遺言を述べているのは、甚だ矛盾を極めている。例の自己宣伝癖が死ぬまで発揮されたのであるか。<br />一、自分の事は歴史の審判に待つだの、俺の死骸は見せ物じやないとマッカーサーに言つてくれだの、大見得を切つているが、歴史の審判も凄まじい、見世物じやないも幼稚なタンカである。<br />　以上一寸考えただけでも、この大将の自決は大醜態である。なんだか吉良上野之介の最期を想わせられる。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　夢声の日記もまた東條の自決未遂に対して否定的である。夢声は「裁判を受けるべきだ」とする主張を持っていたが、注目すべきは「ピストルで腹を射つなんて、凡そこれは前代未聞であろう」と記している点だ。当時の朝日には「左腹」を撃ったと記しており（長谷川記者は後にも「左腹」と述べているが、実際は明らかに左胸　当ブログ「<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-47.html " target="_blank">東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言自殺か否か～　（後編）</a>」と「<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html " target="_blank">同　前編</a>」参照のこと）、これが悪影響を及ぼしていることが分かる。<br /><br /><br /><br /><br />【細川護貞　『細川日記』】<br /><br /><br />細川護貞<br />『細川日記』（９月１２日の記述）<br /><blockquote><p>昨日、東条は米兵に抑留せられくとして、拳銃自殺を図り未遂、そのまま米司令部に連行さる。傷つきたる後の談話といひ、今日に到りたる態度といひ、人間の出来損なひなること明瞭なり。</p></blockquote><br /><br /><br />　「人間の出来損なひなること明瞭なり」と罵る細川だが、ここでは「傷つきたる後の談話」（恐らく長谷川記者が聞き取った「遺言」）と「今日に到る態度」をその非難の根拠にしている。しかし、正直、内容が掴み難いので東條に対する反発が広く存在した、とだけ指摘しておくことにする。<br /><br /><br /><br /><br />【長與善朗　『遅過ぎた日記－終戦のころから－（上）』/河辺回想録】<br /><br /><br />長與善朗<br />『遅過ぎた日記－終戦のころから－（上）』<br /><blockquote><p>杉山元元帥夫妻自決。<br />気の毒だ。死に損つて米軍の介抱をうけてゐる東条は醜態といへば醜態だが、<strong>もう東条も宥されていい。彼ばかり悪いとするのは恥知らずだ。</strong></p></blockquote><br /><br /><br />こちらは東條に対して同情的な日記の記述。何も非難ばかりがあったわけではない（大勢は否定的に受け取ったであろうが）。<br /><br /><br /><br /><br />河辺虎四郎　<br />『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ　－最期の参謀次長の回想録－』（回想録）<br /><blockquote><p>東条大将自決未遂<br />　九月十一日のこと、東条大将が自決を図ったが、拳銃弾効を奏せずして、自決未遂に終わった。<br />　今において東条大将が自決することがよいかよくないか、それには主観的に客観的にいろいろの考え方があるであろう。その論議は別として、<strong><font color="#FF0066">大将自身意を決した以上、見事に成功すればよかったに、気の毒な人だと私はひそかに思わざるを得なかった</font></strong>。また、この時期殊更にいわれる世間の悪評を聞くことはまことに不快の極みである。</p></blockquote><br /><br /><br />　日記ではなく回想だが、河辺中将は東條の自決について当時も同情的であった、という。こちらも否定的意見のみが存在したけではない、ということのために提示する。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />【私見】<br /><br /><br />　ここに記された人々の日記や意見は東條の身近にいて、同事件へと直接関わった人々のものではない。まさしく「世間」の人々が主であって、その人々がこの事件をどう受け取ったかを示すものである。<br /><br /><br />　ここで明らかになったのは、東條の自決未遂は世間の大勢としては否定的に捉えられたことである。関係者でなく事情や内幕を知らために起きる誤解や疑問、にも関わらず起きる憤り、あるいは東條が裁判を拒否して意見を披瀝する機会を失したことに対する批判、自決に失敗したことに対する批判、そういったものがそこには存在した。<br /><br /><br />　東條の自決未遂に対しては共感する意見もある。例えば自決が未遂になったこと、それそのものがミットモナイ、無様だ、という意見だ。しかし、この批判も個人の価値観に立脚したもので、それ以上の意義は見出せない。また、自決にいたる準備や心情等を調べれば東條の自決未遂をそこより進めて批判出来るかどうか。<br /><br /><br /><br /><br />　さて、東條が自決に失敗したことを度々非難した山田風太郎だが、東京裁判時における東條の行動について、こう日記に記している。<br /><br /><br /><br /><br />山田風太郎<br />『戦中派闇市日記』<br /><blockquote><p>二十七日（土）　曇 <br />　〈寶石〉クリスマス号送来。東京裁判愈々東條部門に入る。<font color="#FF0066">態度、口供書内容、天晴といわんか堂々といわんか。<strong>最大の日本人の讃辞にそむかない。これで東條は永遠に日本人の胸中深く神となった。</font></strong>それにつけても滑稽なのは新聞で、東條がいちいち独断でやらず種々の会議にはかってことを決したのを「彼が大政治家でなく一官僚にすぎなかったことをばくろしている」など言ったり、（もし独断で決行していたら大政治家といわず独裁者とガナリたてるだろう）東條が、今のアジヤの情況と比較して、日本の戦いはアジヤ解放戦であったといっているのに対して、軍国主義国家の「侵略」と民主主義国家の「解放」とは全ぜん意味がちがうなどいっている（毎日）、何たるあゆ何たる卑窟、それで東條の弁を三百代言的などいっているのだからアキれかえって文句もいえない。こう書かねばならん事情はわかるが、もう少し何とか書けそうなものだ。</p></blockquote><br /><br /><br /><br /><blockquote><p>十二日（金）　朝 <br />　被告二十五名全部有罪。東條、土肥原、板垣、武藤、木村、松井、廣田絞首刑、東郷二十年、重光七年を除いてあと全部終身刑。 <br />　午後の夕燈の東京の町々、プラットフォーム、家々に国民凝然としてこのラジオ実況放送を聞く。悲壮の景。 <br />　東條はこの宣告を聞くや、ウエッブ裁判長を凝っと見つめてふかく三度うなずき、微笑んで静かに法廷を去ったという。―――<strong><font color="#FF0066">東條はかくて日本人永劫の英雄となった。</font></strong>明日から新聞は一せいにこの裁判を公正とホメチギリ、おベンチャラに全力をあげるだろう。しかし、東條のこの態度に心中恥じざる日本人があろうか。心情は異り、風習は違っても、全世界の人々で何人が打たれないものがあろうか。 <br />　アメリカはこの刹那、東條に敗北した。 <br />　<strong>唯一人の勝利者。</strong> <br />　<strong><font color="#FF0066">この戦いに指導者にその人を得なかったとは、もう言えない。東條は、少なくとも現存する日本人中、最大の人物には違いなかった。</font> </strong><br />　きょうラジオの法廷放送を聴きながら考えたことだが、聴いているだけで、身体がふるえて来た。（このふるえの三分は連合国に対する怒りと憎しみだが）　あの息づまるような重苦しい凄壮感、あの中で絞首刑に処す、と言われた本人が、平然と微笑みを浮かべている、ということは実に大変な芸当だ。何クソと思っても植物神経の無慈悲な働きは、知らず知らず顔色を一瞬に変えさせるものだからである。ひとごとでなく、自分の場合は、真に心境が到っていなければ出来ることではない。死に臨んで泰然たりとは一種の発狂状態、夢幻状態にあることの反面的な形容だろうと思っていたが、東條らの態度は、これは確かに正気で、立派なものである、<strong><font color="#FF0066">彼は戦死者のことを考えていたのだろう、こういう偉大な人間が日本人の中にもいた</strong>、ということは終戦以来人類のクズみたいに外国から毒づかれ、自らもそう思いこみ、また政治家もヘンにウス汚い小人ばかりが蛙鳴しているのに愛想をつかしていた日本人も、やっと清い偉大な誇りをその胸に呼び戻すだろう。</font> <br />　新聞―――民衆の代言者、民衆の友たるべき新聞というものはあり得ないのであろうか。戦争中、戦後、権力者のみにアユベンネイする新聞。あらゆる文明の利器は功罪半ばせざるものは一つもないが、新聞もまたその誹は免れない。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　「理屈よりも死が多くを語る」のだから自決せよ、とした山田は東條が裁判において真剣に語った様子を見て、東條を「日本人永劫の英雄」「神」とすら述べ絶賛することになった。東條は高見や夢声の批判にある如く、裁判において己の意見を披瀝し、責任を引き受け、国家・天皇のために身を犠牲にしていったわけである（東條の東京裁判での口供書は現在『大東亜戦争の真実　東條英機宣誓供述書』として復刊され簡単に手に入るようになっている。詳しい内容は　反日ワクチン様　<a href="http://vaccine.sblo.jp/article/1052967.html" target="_blank">http://vaccine.sblo.jp/article/1052967.html</a>　を参照のこと）。<br /><br /><br />　東條が自決に失敗したのは本人にとっても遺憾のことであったろう（「聞く処に依れば近衛公、昨十六日自殺逝去せりと。余としては其の心中了解し得、寧ろ死を全うせしこと羨望に不堪」と日記に書き込んだという）。しかしながら、その余生をもって日本に報いようとし、そして実際に行動した態度から、批判の一部も打ち消されることになろう。東條の自決が失敗に終わった点ではその無様さに対する非難は可能であるが、東條の後の行動や事前の準備、彼の逡巡や内心を思えば非難するのは適当ではない、と私には感じられる（個人の感情や価値観にもよろうが）。<br /><br /><br /><br /><hr size="1" /><br /><br /><br /><br />　この東條自決未遂に関する騒動の問題は、如何に感情と言うものが人間の目を曇らせるか、ということを明らかにした。１番はじめのピストルの口径に関する議論で私は佐々氏と石原氏の言論を示し、それが全くの間違いであることを指摘した。石原氏は後に月刊誌『正論』で自らの誤りを謝したが、彼ら戦争経験者の言論の根底には良かれ悪しかれ「感情」が存在しているのではないか。彼らは独自の経験を持ち、歴史を歩み、直に体験してきた。それは強みである一方で、それゆえに冷静さや公平さを十全に発揮して歴史を見ることが出来難い立場にあると言えるのではないだろうか。家を焼かれ、家族を失い、友を亡くし、死を覚悟するような極限の生活をしてきたものが、その強烈な経験と主観を軸に歴史を振り返ってもおかしくはないし、何らかの影響を与えないとも限らない。<br /><br /><br />　世では口々に「戦争責任」と述べ、やれアイツが悪い、これコイツが悪い、とアチラコチラへ非難の声を挙げている。戦中派の一人である某氏が主筆を務めておられる新聞などもその一つであろうか。戦後６０年を経た後も「原因」でなく「責任」を問いかけ、あの戦争が「歴史」として昇華されないところを見ると、私のような若輩でさえ、まだまだ２１世紀も「戦後」なんだなぁ、としみじみ感じるときがある。<br /><br /><br />　彼らの大東亜戦争に対する不満や感情から東條を嫌う気持ちも分かるが、かといって身勝手な加虐を見せつけられるのは少々心が痛む。まして事実関係をすっ飛ばして狂言説を吹聴するとなれば堪らない。<br /><br /><br />　東條の自決について、私は様々な史料を提示し、コメントし、考えを示した。そして、自らの考えを示した。これについて何か意見がある方はコメント欄やメールなりでどうぞ。<br /><br /><br /><br /><br /><br />■当ブログにおける関連エントリー<br /><br /><br />東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言か否か～　（後編）<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-47.html" target="_blank">http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-47.html</a><br /><br /><br /><br />東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言か否か～　（前編）<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html" target="_blank">http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html</a><br /><br /><br /><br />東條英機自殺未遂事件の真相を問う①　使用されたピストルが「２２口径」であるか否か<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-1.html" 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<dc:subject>近現代日本史</dc:subject>
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<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>【020・後編】下村定『終戦処理の回顧』 　/    東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言か否か～　　（後編）</title>
<description> 　前編では、主として東條の「準備」に関する部分に焦点を当てた。後編では自殺についての「心情」部分にアプローチし、東條自殺未遂事件を検証する。なお、前編と同じく、分かり易くするため関係史料の引用箇所において準備に関係する部分を青色系の強調色で、心情が分かる箇所を赤色系の強調色で色づけするので予めご了承頂きたい。■東條自決決行前日の下村陸相との会談下村定『終戦処理の回顧』 　九月上旬、東條元首相ほか数十
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<![CDATA[ 　<a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html" target="_blank">前編</a>では、主として東條の「準備」に関する部分に焦点を当てた。後編では自殺についての「心情」部分にアプローチし、東條自殺未遂事件を検証する。なお、前編と同じく、分かり易くするため関係史料の引用箇所において<font color="#0066FF">準備に関係する部分を青色系の強調色</font>で、<font color="#FF0066">心情が分かる箇所を赤色系の強調色</font>で色づけするので予めご了承頂きたい。<br /><br /><br /><br /><br />■東條自決決行前日の下村陸相との会談<br /><br /><br /><br />下村定<br />『終戦処理の回顧』 <br /><blockquote><p>　九月上旬、東條元首相ほか数十名の人が、いわゆる戦犯容疑者として近く逮捕されるだろうという情報が入った。<br />　私は、その以前にかなり確かな筋から<strong>東條氏が自殺を決意していることを聞いたので、これを諌止するため九月十日、同氏を陸軍省に招き他人を交えずに一時間半ほど懇談した</strong>。<br />　同氏は最初の間、<br />「<font color="#FF0066">自分は皇室および国民に対し深く責任を感じているので、自決するのは当然である。しかし外国人から裁判を受ける必要はない</font>」<br />　と主張した。これに対して私から、<br />「国際裁判の第一の目的は、戦争責任の所在を追及するにあると察している。これに対して日本の立場や政府の責任などを最も明白公正に答えうるものは、あなた以外に、これを求めることは不可能と思う。<br />　もし、あなたが裁判以前に自殺されたら、審理上日本側が不利不公平な破目に陥ることがあり得るし、<strong><font color="#FF0066">ことに万一累を陛下に及ぼし奉るような事態でも起きたら、それこそ申訳ないではないか</font></strong>」<br />　と力説したところ東條氏は「<font color="#0066FF">生きて法廷に立たずとも、すでに詳細な供述書を用意しているから迷惑はかけない</font>」といって中々応じなかったが、<font color="#FF0066">ただ累が皇室に及ぶかも知れないという点では、同氏の性格上大いに苦悩したらしく</font>、しばらく黙考の末、<br />「君のいうことはよく解る。しかし自分の決意には今一つの理由がある。自分は、<font color="#FF0066">かつて公布した<strong>戦陣訓</strong>の中に、俘虜の辱めを受けるよりも潔ぎよく死をえらべと訓えた。連合国側がもし容疑者に対して侮辱的な取扱をする場合、自分はこれを甘受することはできない</font>」<br />　といって譲らない。<br />（略）<br />　私の知る限り、同氏の自殺未遂は同情すべき点こそあれ、一部で噂されたような芝居でも何でもない。<strong>また当日まで決行しなかったのは、裁判に提出するための供述書の浄書を腹心の者に頼み、その出来上りを待っていた故であったとのことであった</strong>。<br />（後略）</p></blockquote><br /><br /><br />　東條は９月１１日の自決決行の前日（つまり９月１０日）に下村陸相と会談し、１時間半ほど自殺について議論している。東條逮捕の情報は入っていてもそれが何時になるか、どのような手続きによって行われるのか東條は何も知らなかった（というより、政府側から逮捕について連絡があるものと思っていたようだ）。<br /><br /><br />　前編で引用した榊原氏の記録にもあるように下村氏と東條氏は自決についての考え方が違っていた。上記の証言からは東條が「戦陣訓」や「責任」から自決を主張していることが分かる。その反面で、東條は、国家や、自らの優先順位の第一としている天皇陛下に害が及ぶことを殊のほか心配して下村氏の諌止に随分と悩んだようだ。下村陸相が述べるには、東條は自分が死んでも政府が困らぬ様に供述書を準備している旨も語っている（そして、その完成を待っていたところに連合国が来たとも）。<br /><br /><br /><br /><br /><br />■巣鴨の教誨師であった花山信勝教誨師と東條との会談<br /><br /> <br />花山信勝<br />『平和の発見』<br /><blockquote><p>「（略）一つお尋ねしておきたいと思いますのは、東條さんが自決されようとされました時のお氣持ちを、一つはつきり伺つておかないと、いろいろ間違つたデマが、そのままになつてしまうということを恐れますので――」<br />「<strong><font color="#FF0066">それは結局のところですな、部下たちに俘慮となるな、そういうような時があれば死を選べと戰陣訓にえておいたので、自らそれを實行したまでなのです。</font>他の人々には前の日に通知があつたが、私にはだしぬけに憲兵が來た。そこで、間髮を入れずやつたのです。</strong>なお家のものに傳へておいてもらいたいが、秀正（滿喜枝さんの婿）の自殺した軍用銃を使つたのだということを。誰も知つておらぬと思うから。ところが、直ぐ手當をされたのです」<br />「しかし、あの時死んでおられたら、今のような宗のびには入られなかつたと思うのですが」<br />「そうです、<font color="#FF0066">個人からいえば、一つには宗に入り得たということ、二つには人生を深く味わつたということ、三つには裁判においてある點を言いえたということ、は感謝しています。なおそれに付加えて、家庭のことについて喜ばしいことは、千萬圓とか、二千萬圓とかを三菱からとつておるといわれたことが、司直によつて徹底的に調べられ、そんなことのないということが當局によつて發表されたことである。私は喜んで死んで行くことができる</font>」</p></blockquote><br /><br /><br />　花山信勝氏は巣鴨プリズンの教誨師である。東條ら所謂「Ａ級戦犯」の死刑にも直接関わった人物であり、彼らに戒名をつけたりもしている。東條は巣鴨プリズンの中で花山氏の導きもあってか仏教に帰依したようだ。花山氏の著書には東條との仏教談義の様子が描かれている。上記でも花山氏との会談らしく、その部分が色濃く反映されている。<br /><br /><br />　また、ここでも東條が戦陣訓を思い、自決を図ったことが語られている。<br /><br /> <br />　余談だが、世間は東條叩きに走り、色々とあらぬ噂が立てられた。その一つが東條に対する多額の献金や用賀の東條宅に対する財閥の支援の噂である（他にも東條が女好きで不倫をしていた等がある）。用賀にあった東條の家は質素であり、敷地は坪８１２と広大だが、家は六畳二間、十畳一間、応接間が八畳、あとは台所と便所で規定の三十坪以内に入っていたという（その後、荷物用の納戸をつけたして一坪ちょっと規定を超えたため、家を紹介した畠山氏が頼まれて警察に謝りにいったというエピソードがある）。この時代の金で全部で一万円。畠山氏によれば道楽のない人間（せいぜいタバコぐらい）が少尉から大将までやってきて貯金の一万、ニ万ほどの金がなかったらその方が不思議だと語っている（『東京兵団』より）。また東條の清貧のエピソードは結構あり、穴のあいた靴下を履いていたり、着るものに困ったり、若い時代に部下に頼まれたら着るものを質に入れて金をやったり、とこういった調子である。<br /><br /><br /><br /><br />■東條英機大将の自決と重光葵<br /><br /><br />重光葵『巣鴨日記』 <br /><blockquote><p>三月六日 土曜日 曇<br /><br />　一度は自殺を計つた東條も裁判では健鬪して居る。<font color="#FF0066">彼は自殺を計つたのは、自分の大臣時代に出した戰陣訓に俘虜となるよりは自殺せよと書いてあるのを實行したのだと云つて居る</font>。彼こそは已に覺悟して居る人である。元氣で最後の戰を鬪つて居る。立派に死んで行くのが彼に殘された義務である。<br />　網戸越しに娘達と父らしく親しく談して居る光景は涙なしには見られない。<br /> <br />※昭和二十三年の日付</p></blockquote><br /><br /><br />　『巣鴨日記』は重光葵氏（釈放後、改進党総裁や外相にも就任）が東京裁判における所謂「Ａ級戦犯」として被告になった時の日記である。もちろん巣鴨プリズンの中では他の戦犯容疑者との交流があり、日記には東條についての記述も含まれている。己の死を賭けて闘う東條の姿に重光は涙を浮かべているのだろう。後にも重光は東條を「死を前にして戦う勇者の風あり」と評している。ここでは東條が自殺において「戦陣訓」について考えていたことが証言されている。<br /><br /><br />　次ぎに、終戦後の東條と重光についてみてみたい。<br /><br /><br /> <br />重光葵<br />『続・重光手記』 <br /><blockquote><p>　<font color="#FF0066">東条は大麻［唯男］君を通して（八月廿ニ日）記者に伝言して来たことは、（１）戦災者を軍人と均しく靖国神社に合祀すること、（２）自分（東条）は戦争犯罪者となることは飽く迄拒否するも、戦争責任者としては如何なる裁判をも辞せず堂々と所信を披瀝し其の全責任を背負ふべきの二点であった</font>。<br />　九月十一日彼れは先づ米国新聞記者の訪問を受け、後に米国憲兵に踏み込まれた。暫くとて応接間に閉ぢ籠った後、ピストルの音がした。一発射つたが生命はとりとめた。<br />　<strong>記者は其の報を得て直に横浜鈴木公使をして米側に対して、<font color="#FF0000">何故に日本政府を通ぜず直接逮捕に向はしめたりや</font>、而して重態のものを連れ行くは不当なり、と抗議を申入れしめた</strong>。マ元帥は重態なれば自宅療養可なりと答へ米軍医を派遣したが、東条は病院車で搬ばれて横浜の病院で敵側の看護を受けて全快して、十月中旬には他の「戦争犯罪人」と共に大森の収容所に移された。<br />　九月十七日の鈴木公使の報告に依れば、<strong>東条は見舞に行つた公使に対し米軍の親切なる看護及マッカーサー及アイヘルベルガー第八軍司令官の病床見舞を感謝し米国の武士道を賞賛して、サラに戦争責任に付いては飽く迄外務大臣の承知して居る通りに処置する旨を述べたとのことである</strong>。</p></blockquote><br /> <br /> <br /> <br />重光葵<br />『重光手記』 <br /><blockquote><p>記者は直に之に抗議せしむると共に、自ら横浜に出かけて、サザランド参謀長に会見した。<br />　戦犯のリストに重臣や現閣員を指定することの不穏当を強く指摘して、其の撤回を求めて、先方は之を納得した。<strong>記者は更に、<font color="#FF0000">占領軍は直接に行動せず、総て日本政府を通じてやると云ふ約束に拘らず</font>、東条大将を自ら逮捕したのは約束違反である、以後は万事約束通りにして貰ひ度い、日本政府は決して約束に相違することはしない</strong>、と申込んだ処、サザランド参謀長は簡単に「あーそうだった。今後は必ず左様する。然し嶋田（繁太郎・元海軍大臣）は間に合わぬ」と応ふ。聞けば嶋田海軍大将は今朝已に逮捕発令になつたとの事であつた。<br /> <br />（略）<br /> <br />　東条大将は前閣僚大麻唯男（元国務大臣）氏を介して、記者に対して「<font color="#FF0066">東条は政治上の戦争責任は全部引き受ける。陛下に御迷惑を及し度くなし</font>」と伝言して来た。<br />　日本は皇室も結局国民と共に浮沈する、又其の覚悟によつて日本は救はるるのであると思つた。</p></blockquote><br /><br /><br />　上記の２つの手記について述べたい。ここでは面白いことが幾つか書かれている。一つは東條が終戦後に重光（外務大臣）に対して大麻唯男氏を通じて、政治責任（敗戦責任）を負うことや、敗戦責任に対する裁判なら何時でも受けることを伝えている点である。周知の如く、東京裁判はその「侵略に対する共同謀議」や「戦争犯罪」を裁く目的が主であり、「敗戦責任」について問うているわけではない。逮捕に向った「連合国」（戦勝国側）が「敗戦責任」など問うはずもないのだ。この点については前編に紹介した塩原時三郎弁護人が伝えたという東條大将の述懐と一致している点も注目したい。東條は自決、そして裁判、という２つの方途について己でよく熟慮していたことが分かる。<br /><br /><br />　東條自身の語りと準備から「自殺か裁判か」という選択では自殺に重心を置きつつ、敗戦責任を日本が裁く、ならばそれを受けるという考えであったことが分かる。戦陣訓が自殺への要因の一つであったのだから、日本政府に裁かれること、そして死んでいった者たちの遺族、そして天皇陛下と国家への責任を受けることは、その自殺への動機と矛盾しない。だが、実際は連合国軍によって「戦争犯罪人容疑者」として出し抜けに逮捕されるということになったのだから、自決という選択を選んだわけである。遺書や様々な自殺への準備からこの事は分かっており、相当に自殺へと傾斜していたことも指摘しておく。<br /><br /><br />　二つ目は重光が東條逮捕に憤慨して、度々連合国側に抗議している点である。重光が東條の自殺決行を知った瞬間、その場所にいた矢次一夫氏はその著書でこう語っている。<br /><br /><br />矢次一夫<br />『東條英機とその時代』 <br /><blockquote><p>　二十年九月十一日夜、私は帝国ホテルで重光外相と会っていた。実を言うと、重光と私とは、八月十五日、天皇の終戦に関する勅語放送を聞いたあと、熱海の大観荘で一夜を共にし、彼が東久邇内閣に外相として入閣することが決まったあと、おくれて東京に帰った。重光からは、帰京したら訪ねてくるように、言われていたのだが、帰って見ると、海軍中将大西滝次郎が自決しており、私あての遺言が残されていたので、葬式や何やかやで、重光との約束を果すのがおくれたのである。彼を帝国ホテルの訪ねたのは、外務省大臣官邸が焼けたので、ホテルの一室を執務室にしていたからだが、二人で話しているとき、次官の沢田廉三が慌しく飛び込んで来て、大変だ、東條が自殺した、と言う。私が、自殺は成功したのか、と聞いたのに、いや、まだ詳しいことはわからぬ。しかし、米軍が東條逮捕に向ったので、それがきっかけとなったようだ、とのことであった。<br />　<strong><font color="#FF0000">重光は、それは怪しからぬ、と言い、言語道断のことだ、とも言った。今後戦犯者を逮捕するときは、必ず日本政府を通じて行うよう、話し合いが出来ているにも拘わらず、直接手を下すとは協定違反だ、と怒り、そして重光は立ち上がって、これからマッカーサーを訪ね、抗議をしよう、そして今後二度とこのようなことの起らように、厳重に釘を打っておかねばならぬ、と言い、急いで沢田と共に出て行った。</font></strong></p></blockquote><br /><br /><br />　日本政府（外務省）とＧＨＱ側で逮捕については事前に日本政府がこれを行う旨で合意していたようである。東條勝子夫人の手記にも内務省が一言連絡してくれればこのようなことにはならなかったのではないか、といった主旨のことを書いてあったが、東條はおろか、当時外相の重光さえもこれを知らず出し抜けに逮捕に行かれたのだから仕様がないことではある。畠山氏は東條の自決が米軍の直接逮捕を止めさせた、と捉えているようだが、その裏には重光らの厳重抗議があったことを指摘したい。<br /><br /><br />　この他にも東條が靖国神社について戦災者を合祀するよう重光に要請していたことがこの文章で窺えるし、あるいは米軍の手厚い看病について感謝の意を示していることが書かれている。<br /><br /><br />ロバート・ビュートー<br />『東条英機（下）』<br /><blockquote><p>　最初の十二時間ないし十四時間の間だけですでに、東條は血液の半分を失い、合計六ないし七回の輸血を受けた。アメリカ人の一部には、なぜアメリカ軍が東條に対してそんなにまで看護するのが理解できないという者もあった。ジョンソン医師は、後になって、「なぜ彼を死なせなかったのか」と聞かれたりした。これに対しては、この医師の義父が、すでに、「<strong>ジミーはわれわれが東條をちゃんと絞首刑に処せるよう東條の生命を救ったのです</strong>」という答えを用意してくれていた。<br />　病院の一アメリカ人軍曹は、東條の回復のためにＢ型の血液を提供してくれと要求されてこれに応じたが、その際「わたくしは、彼を生かして、彼に裁判で正当なむくいを受けさせたい。彼をこのまま安らかに死なせたのでは手ぬる過ぎる。少しはわたしくがニューギニアで過ごした十七ヵ月のお返しをしなくちゃ」といったのであった。</p></blockquote><br /><br /><br />　米軍の手当も東京裁判を考えていたのであろうが、東條にしてみても、己の所信を披瀝させ、再度、国家や天皇のために自らを犠牲にするチャンス（あるいは使命）を得たことを考えているのだろうか。また、米軍の手厚い看護に本気で意外の感に打たれ、あるいは感銘を覚えたのかもしれない。<br /><br /><br />　東條の秘書官だった赤松大佐の著書には<br /><br /><br />赤松貞雄<br />『東條秘書官機密日誌』<br /><blockquote><p>　この点については、大森拘禁所で東条さんみずから私の親友榊原主計大佐にも語っているのである。一度生き返られた以上は「あくまで健康を保って、最高戦争責任者として十分弁明し、お上には累を及ぼさぬようにしたい」と決心し、昔はバターやチーズなど一切口にしなかったものも我慢して摂取して、東京裁判にのぞんだのであった。</p></blockquote><br /><br /><br />　と記されている。<br /><br /><br /><br /><br />■東條自決の現場と遺言<br /><br /><br />聯合國總司令部民間情報育局編<br />『眞相箱 太平洋戰爭の政治・外交・陸海空戰の眞相』<br /><blockquote><p>東條大將の自殺は狂言か<br /><br />東條大將は狂言自殺を圖つたのですか？<br /><br />（略）バーンズ伍長が飛ぶやうにして、東京郊外にある東條大將の家へかけつけたことは申すまでもありません。そして彼はそこで、元首相が自殺を圖つた瞬間の、何枚かの貴重な寫眞を撮影したのであります。この寫眞はその後目撃者の記事と共に、雜誌ヤンクに掲載され、東條大將の自殺が絶對に狂言でなかつたことを充分明らかにしてをります。大將は本當に死ぬ積りでゐたのです。たゞそれがうまく行かなかつたといふに過ぎません。<br /><br />（略）<br /><br />　約一時間して、一人の日本人の醫者が來ます。第六番目の寫眞では、その醫者が大將を診察してをります。大將は醫者の手當を拒み、死なせてくれといひますが、アメリカ軍中尉は、その醫者に對し全力を盡くして大將の命をとりとめるやう命令を下します。醫者は沈痛な面持で、自分には手を施す術がない、大將は死ぬだらうと語ります。<br />　第七番目の寫眞では、一人のアメリカ軍の軍曹が來て、大將の輸血に取りかゝるところが見られます。軍曹の言により、傷は大して重いものではなく、少なくとも始め考へられたほど重いものではないと判ります。大將は自分が死んだとき、一見して東條英機の死體であると判るやう、頭を射たずに心臟を射つた譯ですが、的が外れて心臟を射つことが出來なかつたのであります。<br />次の寫眞には、別の室に設けられた淨な祭壇が撮つてゐます。大將はその前で自決するつもりだつたのです。後に大將が語つたところによると、時間がなくて古式に則つてそれを行ふことが出來なかつたといふことであります。自刄のために用意した一本の短刀が、大將が三十ニ粍拳銃で自決を圖つた室の眞白い布地の上に置かれてゐます。（後略）</p></blockquote><br /> <br /><br />　ＧＨＱのプロパガンダ本として悪名高い『真相箱』には東條自決について書かれた箇所が存在する。なんと、驚くことに、連合国側の「真相箱」でさえ「東條の自決は狂言か」という質問に、「絶対に違う」と答えている点は興味深い。<br /><br /><br /><br />　さて、当時の東條自決の現場ではどうであったのだろうか。<br /><br /><br /><br />朝日の長谷川記者が記した当時の新聞（縮刷版より）<br />東條の遺言<br /><blockquote><p>一發で死に度かつた、時間を要したことを遺憾に思ふ、大東亞戰爭は正しき戰ひであつた、國民と大東亞民族には實に氣の毒である 十分自重して大局の處置を誤らぬことを希望する、責任者の引渡しは全部責任を負ふべきである、…復興することは更に困難である……法廷に立ち戰勝者の前に裁判を受けるのは希望する所ではない、寧ろ歴史の正當な批判に俟つ――切腹は考へたが兎もすれば、間違ひがある、一思ひに死にたかつた、あとから手を盡して生かへるやうなことをしないでくれ<br />陛下の御多幸を行く末までお守りしてどこまでも國家の健全な發達を見○ける事ができれば幸ひである、<strong><font color="#FF0066">責任者としてとるべきことは多々あると思ふが勝者の裁判にかゝりたくない、勝者の勝手な裁判を受けて國民の處置を誤つたら國辱だ</font></strong>――家のことは廣橋（伯爵）にまかせてある、その通りやればよい、家のことは心配ない<br />天皇陛下萬歳、<strong><font color="#FF0066">身は死しても護國の鬼となつて最後を遂げたいのが願念である</font></strong>…畠山水をくれ…腹を切つて死ぬことは知つてゐるが、間違つて生き度くない、責任は了した、死體は引渡したらよい、俺の死體はどうなつてもよい、遺族に引渡さなくともよい、しかし見せ物ではないとマツクアーサーに言つてくれ――<br /><br /><br />○＝見届けるか（引用者注）</p></blockquote><br /><br /><br />　ここでは東條が治療を拒否し、死に赴こうと闘う姿が描かれている。幾つもの史料からわかるが東條は連合国側が勝手に大東亜戦争を裁断し、評価を下すことを認めていない。また連合国による戦争犯罪裁判についての拒否も見える（逮捕後は現実に沿い天皇・国家弁護の方へ驀進している。戦争犯罪については拒否し、敗戦責任は進んで受ける、という態度は東京裁判時の宣誓供述書からもハッキリと窺える）。<br /><br /><br />　この後、ＣＩＣは日本人医師を呼び付けて治療を命令した。その人物が荏原為明医師である。荏原医師は畠山清行氏の『東京兵団』でこう答えている。<br /><br /><br />畠山清行<br />『東京兵団』<br /><blockquote><p>「私は、そのまま隣の部屋へ連れて行かれたので、その後のことは知りませんが、部屋を出る時、<strong>東条さんは新聞記者らしい男に"この戦争は、正義の戦いだったのだ"というようなことを、話していました</strong>」<br />　と畠山重人氏は語っている。（記述はすべて畠山重人氏の談話による）<br />　荏原病院長荏原為明氏が迎えられたのは、それから約一時間後であった。<br />「（略）私が行った時はピストルももなにもなく、出窓の棚に軍刀が置いてあって、ＭＰが三、四人、丸卓子を囲んで椅子に腰かけていた。東条さんは、その向側のソファに、ワイシャツの胸をはだけて寝ていたが、傷は左乳の斜め下に一センチぐらいの丸い穴があり、周囲は煙硝でくすぶっている。弾丸は背に抜けたとみえて、背には切傷のように縦に長い血線がついていた。（弾丸は背から椅子の背を突き抜け、壁に突きささっていた。――畠山重人氏談）その傷からみて、非常に小型の拳銃で撃ったものだと判断した。<br />　私が診察していると、東条さんは"お前はなんだ？"ときく、"医者だ"と答えると"<strong><font color="#FF0066">オレをなおすと、国のためにならんぞ</font></strong>"と言った。私は、気の短い方だから、とたんにむっとした。（今になって死ぬ奴があるか。堂々と裁判に出て、日本の正義を主張してやるべきだ）という考えだったから、顔色が変ったにちがいない。米兵はそれをみて"いま、東条はなにを言ったか？"と私にきく。私が知らん顔をしていると"お前、英語を話せるか"ときいた。私が首をふると、こんどは二世らしい男を連れて来て、その男が"東条はなにを言ったのか"ときいた。<br />　<strong><font color="#FF0000">傷は心臓すれすれで、深さも薬指の第二節くらいまであったから、私はとうてい助かるまいと診断して帰った。</font></strong>（略）」（世田谷区玉川用賀町荏原為明氏談）</p></blockquote><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />　呼ばれた荏原医師の診断では「東條は死ぬ」というものであった。東條の怪我もＲ・ビュートーによれば中鎖骨系第五空間であり、心臓の先端を打つのに正確であって、実際の傷も心臓ギリギリだったという。それゆえ、ここまで心臓に近い距離を撃つのは狂言では出来まい、というのだが、どうだろうか。東條の治療拒否についても再度指摘しておきたい。<br /><br /><br />　東條が生き返った理由も①左手が利き手だったから狙いがはずれた（銃を撃った手が左手か右手か、彼の利き手がどちらかについては議論がある。CIC報告書では発砲した側の手を類推可能な文章があり、こちらは右手での発砲である。問題は、彼の利き手であるが、左利き説は東條の衣服の擦り切れ具合などを基に主張されている）②年のせいで皺で弛み目印の位置がずれてしまった③東條の心臓が特異な形態をしていたため正確な位置を撃っても命中しなかった、などがあるが、やはり④米軍の医療技術の発達と努力という要因があったことは間違いあるまい。<br /><br /><br />　「二世らしき男」は第8軍第301CIC部隊の「ヒラオカ」氏だろうが、「二世」の存在も連合国の占領体制に関しては面白い点かもしれない。<br /><br /><br /><br /><br /><br />■米軍・野次馬の対応<br /><br /><br /><br />畠山清行<br />『東京兵団』<br /><blockquote><p>「（略）さあそれからが、天井裏までさぐる徹底的な家宅捜索で、私のふところの遺書はもちろん、神棚にかくした色紙もとりあげられた。彼らがただ一ヵ所みのがしたのは台所の縁の下で、おかげで革鞄だけは没収をまぬがれたが、中身は保険証書などで大したものはなかった。家宅捜索が済むと、<strong><font color="#FF0000">後は兵隊たちが箪笥の裏までかき回し、娘さんの赤い帯や草履まで持ち去った。彼らにしては珍しいものであったろうし『日本の東条の家から分捕って来た』ということが、国へ帰ってからの手柄話になるせいもあったろう。</font></strong>元来、東条家というのは、贅沢三昧しているなどという、世間のデマとは大違い、多少まとまってあったのは戦時公債ぐらいなもので、終戦になった時も『君にも世話になったので、なにかやりたいが、なにもないから』と、東条の私にくれたのが、この戦時公債五千円。そんな有様だから、巣鴨に行ってから『着るものを差入れてくれ』と言われても、軍服と普段着の和服以外にはなにもなかった。背広と思ったが、私のでは大きすぎるし、広橋秘書に話し、広橋さんが藤原銀次郎さんの家へ行って、一着もらって来て差入れたほどだ。そんなろくなもののない処を荒されたのですから、ひどいものでした」（畠山重人氏談）</p></blockquote><br /><br /><br />上記は現場に居た畠山氏の証言である。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />ロバート・ビュートー<br />『東条英機（下）』<br /><blockquote><p>東條が横たわっている部屋の中には、絶えず興奮がみなぎっていた。「いつ東條の小さな胸が動かなくなってしまうかについて」賭けがなされた。煙草が何本も何本も火をつけ、くわえ、捨て去られた。ぴりっと気のきいた冗談が交わされていた（「東條は自分で名誉負傷章を手に入れた」など）。いろんな種類の論議が戦わされた。そしてあの変わった人種たち―――土産物さがし屋―――が、忙しく活動していた。「ある人は東條の血まみれの乗馬ズボンから見事な三角形を切り取った」。同様に残忍な他の連中は、血のりの中に自分たちのハンカチを浸していた。</p></blockquote><br /><br /><br />　Ｒ・ビュートーの著書にはここで文章にするには憚られるような野卑な東條に対する憎しみと対応を野次馬達がしていたことが書かれている。誇張があるかもしれないが、東條に対する憎しみを多かれ少なかれ（連合国国籍の）外人記者たちは持っていたことであろう。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />■「狂言説」に対し<br /><br /><br />　上記で大体、東條英機自殺未遂事件の概要を把握できたことであろう。「狂言説」を主張するものも、大抵は、「頭を撃たなかったのは自殺するつもりがないためではないか」「生きているのは狂言ではないか」といった勝手気ままな推測によってケチをつけるだけで、有力な証拠を何一つ出してこない。東條のなした「準備」「心情」「行動」を総合的に、そして素直に見ればこれが明らかな自決の決行であることは一目瞭然であると、私は考えているのだが・・・。<br /><br /><br />　苦情や意見がありましたらコメント欄かnanigasi_garaku00@yahoo.co.jpまでお願いします。<br /><br /><br /><br /><br /><br />■当ブログの関連エントリー<br /><br /><br /><br />東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言か否か～　（前編）<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html" target="_blank">http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-46.html</a><br /><br /><br /><br />東條英機自殺未遂事件の真相を問う①　使用されたピストルが「２２口径」であるか否か<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-1.html" target="_blank">http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-1.html</a><br /><br /><br /><br />東京裁判における東條英機元首相の影響<br /><a href="http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-20.html" target="_blank">http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-20.html</a> ]]>
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<dc:subject>近現代日本史</dc:subject>
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<dc:creator>何某</dc:creator>
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<title>【020・前編】東條輝雄　『父・東條英機に渡した青酸カリ』　　/   東條英機自殺未遂事件の真相を問う②　～狂言か否か～　（前編）</title>
<description> ■前置き　前回から随分と間が空いてしました。今回は東條元首相の自決未遂が果して「狂言自殺」であったかどうかを検証します。この論点は巷間における「東條自決」論争の根幹部分に位置しているため決して避けて通ることは出来ません。ここでは、私が集めた資料から東條が自決前に如何なる準備をし行動したのか、東條がどのような心情で臨み、述懐しているか、を示すことによって真相究明を試みます。分かり易くするため関係資料
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<![CDATA[ ■前置き<br /><br />　前回から随分と間が空いてしました。今回は東條元首相の自決未遂が果して「狂言自殺」であったかどうかを検証します。この論点は巷間における「東條自決」論争の根幹部分に位置しているため決して避けて通ることは出来ません。ここでは、私が集めた資料から東條が自決前に如何なる準備をし行動したのか、東條がどのような心情で臨み、述懐しているか、を示すことによって真相究明を試みます。分かり易くするため関係資料の引用箇所において<strong><font color="#0066FF">準備に関係する部分を青色系の強調色</font></strong>で、<strong><font color="#FF0066">心情が分かる箇所を赤色系の強調色</font></strong>で色づけします。予めご了承下さい。また、相当な長文になるため、このエントリーは分割して掲載します。<br /><br /><br /><br /><br />■本題<br /><br /><br />　東條自決に対する世間の反応もまた重要な論点ではあるが、それは後にまわし、ここでは東條の自決未遂が果して狂言自殺なのか否か、について各史料に拠って検証してみたい。各資料は（当り前ながら）事件当事者の手記やインタビュー記録、当時の記事などをより多く参照出来るよう心がけだ。三次史料など一般の研究書の記述等を使って事実関係を検証することは避け出来る限り価値の高いものを選ぶよう努力した。ただし、CICの当時の報告書を直接参考にすることはできず、報告書を参照している研究書を代用して使うことになった点には留意いただきたい。未熟な史料批判など不備な点もあると思われるが、我慢して読んでいただければ幸いである。<br /><br /><br />　さて、Ｒ・ビュートーは自らの著書『東条英機』にこのように書いている。<br /><br /><br /><blockquote><p>それにもかかわらず日本国民は責任転嫁用の標的を必要とし、それをさがしつつあった。東條は、最も手近な、それにふさわしい候補者であった。彼が真珠湾当時の日本の首相であったという事実が彼を標的に選ぶ有力な手がかりになった。そして自殺の失敗がこの選定を決定的に固めさせた。「国中いたるところから、<strong>"東條にすべての責任がある。彼がわれわれを戦争に引きずり込んだのだ。彼はへまな野郎だ。数ヵ月前に自殺すべきであったのだ。刀を使うべきだったのだ"などという加虐趣味的な声が湧き起こっていた</strong>。」</p></blockquote><br /><br /><br />　ビュートーは東條に対する自決未遂批判を「加虐趣味的」と形容した。東條の自殺が「狂言か否か」と問われれば、結論から述べてしまうと、それは「否」である。東條自決未遂が狂言であるという有力な証拠は何一つ存在せず、明らかに東條は死を賭けて自決に臨んでいるのだ。証拠もなく勝手な推論で「狂言」と主張するものは上記の如く「加虐趣味」的である。ここでは東條の「準備」と「心情」、そして「行動」の３点から真相究明を試みることにする。<br /><br /><br /><br /><br /><br />■自殺前に東條が青酸カリを準備　また輝雄氏宛ての遺書について<br /><br /><br /><br />文藝春秋　2005年2月号　<br />東條輝雄　『父・東條英機に渡した青酸カリ』<br /><blockquote><p>私は、当時もいまも父のことを心から尊敬してやみません。これまで私は、父、東條英機について何を言われようが、何を書かれようが気にしてはまいりませんでした。あえて弁解する必要もありませんし、反論する気もないのです。<br />　父、東條英機は常に信念の人、無私の人だった。私はそう思っています。<br /><br />　（略）<br /><br />　昭和二十年八月十五日、あの終戦の日の前後のことは、忘れようと思っても忘れられるものではありません。<br />　私が、父と母が暮らす、当時用賀にあった実家にいったん帰ったのは、八月二十日前後だったと記憶しています。<br />　この時、私は自分が勤めていた工場にあった青酸カリを密かに持ち帰りました。家族全員の自決用に、青酸カリの結晶が詰められた茶色の瓶を鞄に潜ませていたのです。父や母が自決を覚悟しているのならば、私も一緒に死のう。そういう気持ちだったのです。<br />　<font color="#0066FF">実家に戻り、父にこの青酸カリのことを告げると、父は<strong>『役に立つ。いいものを持ってきたな』</strong>とだけ呟き、深く頷いておりました。その後、父は私が渡したこの青酸カリを持って、近くに住むかかりつけの鈴木医師のところへ出かけました</font>。<br />　実は、青酸カリは、純粋の結晶の状態では毒性が強過ぎて扱いにくいのだそうです。そのことを知っていたのでしょうか、<font color="#0066FF">父は鈴木医師のところで、私が持ち帰った青酸カリにうどん粉を混ぜてもらい、それを小分けにしたものを手に戻ってまいりました</font>。<br />　父は必要があればいつでも自決する覚悟をしていたのだと思います。しかし一方で、<font color="#FF0066">父は「開戦の時の総理は俺だからうっかり死ぬことは出来ないんだよ。責任者なんだから」とも言っていました</font>。<br />　<font color="#FF0066">米軍には逮捕されない。もし米軍に逮捕されるようならば自決する。しかし逮捕されずに、話す機会が得られるのならば、日本の立場をはっきりと述べたい。そうした思いが強かったようです</font>。<br /><br />（略）<br /><br />　<font color="#0066FF">後になって知人を介し、父が私に宛てた遺言が送られてきました</font>。<br />　父が自決を図った昭和二十年の九月十一日。その日、家にいたのは母親と父の身の回りの世話をしていた一ノ瀬さやさんの二人だけだったはずです。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　これは東條英機元首相の次男東條輝雄氏が寄稿した手記の一部である。ここでは、東條が自決の為に青酸カリを用意していた点、そして輝雄氏宛てに遺書を残していた点が証言されている。この２点とも自殺に対する「準備」に当たり、東條が自決を本気で決行しようと考えていたことを窺わせる。<br /><br /><br /><br /><br />■心臓の位置に墨で目印を書く<br /><br /><br />『証言　私の昭和史　６』<br />東条大将自決ならず！<br /><blockquote><p>（前略）<br /> <br />長谷川　　そばへ行きましてよく見ました。赤いものが出てるんです。左の腹部から、赤い綿のようなものが出てるんですね。これは肺臓の一部だと思ったんです。それで数えてみまして、<strong>あばら骨の四番目と五番目の間かな</strong>、という感じですね。常日ごろ、心臓を撃とうとしていて、やりそこなったのですね。心臓をかすめて肺臓の一部を貫通したといった感じでした。<br /> <br />―――　　ＭＰとしては、これで自決をはかったということはわかりましたから、手当てをしようとするわけでしょうね。どんな手配をしたんでしょうか。<br /> <br />長谷川　　すぐ、軍人の一人が寄って来て、止血をしようとするわけですね。しかし、大将はそれを払いのけるから、かえって血は余計出ますしね、それを押えてるということもできないし、急いで近くの医者を呼ぶわけですが来ない。<br /> <br />―――　　それには何かわけがあるんですか。<br /> <br />長谷川　　それは近くの医者で、東条さんの所へいつも出入りして、自殺の相談にものってた人なんですねえ。<br /> <br />―――　　それでは、まさかの時にはこういうふうにお撃ちなさいという指示をあたえてたわけですか。<br /> <br />長谷川　　そうなんです。<font color="#0066FF">広橋伯爵夫人から伺ったんですけれども、広橋伯爵というのは、当時東条さんの秘書官だったんです。それで東条さんはお医者さんから、<strong>左の心臓の辺に印をつけてもらって、指を当てがって撃つ練習をした</strong>といいます</font>。<br /> <br />―――　　そこはどうなんでしょうかねえ。こめかみを撃つとか、口の中に突っ込んで撃つとかいう方が、確実のような気がいたしますが、心臓をねらったというのはわけがあるのでしょうか。<br /> <br />長谷川　　それも<strong>広橋伯爵夫人から聞いたんですが、こめかみを撃つと顔色が変わるというんです。顔色が変わって自分であるということが識別できなくなるというのです</strong>。</p></blockquote><br /> <br /> <br />　上記の長谷川記者は「科学朝日」の記者で、当日、たまたま外国新聞社の東條関連の取材に道案内として同行、東條宅を訪問しようとしたとき、この事件に出くわし、取材することになった。長谷川記者は大将の遺言を聞き取り朝日に掲載、スクープをとった記者である。しかし、あの記事には幾つか間違いが見え、このやり取りでも東條自決でＣＩＣが呼んだ医者（荏原為明医師）と東条が自殺を相談していた医師（鈴木医師？）とを勘違いしている点は指摘しておきたい。<br /><br />　ここでは長谷川記者が東條の秘書官であった広橋伯爵の夫人に取材をし、東條が目印としてホクロを書き自殺に備えていたことを明らかにしている。心臓の位置に目印を書いたことについて、次ぎに当時、東條宅におり事件の一部始終に関わった畠山秘書（とついでに佐藤賢了氏）の証言をご覧いただきたい。<br /> <br /><br /><br /><br />畠山清行<br />『東京兵団』<br /><blockquote><p>　「その緊迫した空気は、いま話しても想像もできないほどで、私なんかも当然殺されるものと思ったが、どうせ殺されるなら、一人でも二人でも斬って死のうというつもりだった。<font color="#0066FF"><strong>東条さんは、万一にそなえて毒薬も持っていたし、また拳銃で自決する時の用意に、心臓のあたりに墨で印をつけていた</strong></font>。<font color="#FF0066">はじめは裁判に出て日本の正義を訴えるつもりでいたらしいが、裁判もなしに、ここで殺されるものならば、敵の手にかかって恥をさらすより、自ら生命を絶とうと決心したのです</font>。米軍は、この時の失敗にこりて、その後の戦犯逮捕は、日本の警察に命じてやらせるようにしたのだが……」（畠山重人氏談）<br />　また、これについて佐藤賢了中将も、<br />「東条は、進駐軍が逮捕に来ようなどとは考えてもいなかった。敗戦になって、<font color="#FF0066">戦争裁判が云々されだすと、東条は日本政府に、自分を戦争の全責任者として逮捕し、敵に渡してくれと申し出た。東条のつもりとしてはＢＣ級の戦争責任までも、全部一身に背負って行こうと考えていたのだ</font>。そして、生きた自分を敵に引渡せば日本政府の責任はすむ。だから、その引渡されたとたんに、自殺しようという肚だった。まア、これは非常にむずかしいことではあるが、彼は真剣にそう考え、そのために<font color="#0066FF">心臓の上あたりへ、墨で弾丸をうち込む目印もつけていたし、特に小型のピストルも用意していた</font>。（筆者註――これも、後述の荏原医師の傷口に対する証言と一致している）」</p></blockquote><br /><br /><br />　ここでは畠山秘書によって「毒薬」（恐らく輝雄氏が持ってきた青酸カリ）を用意していこと、心臓を撃ちそこなわぬ様に墨で目印をつけていたことが明らかにされている。また同様に東條と共に東京裁判で所謂「Ａ級戦犯」として裁かれた佐藤中将も同様に東條が墨で目印をしていたことを指摘している。<br /><br /><br /><br />東條本人も<br /><br /><br /><br />『東京裁判 (上)』　朝日新聞法廷記者団<br /><blockquote><p>　後日、法廷で塩原時三郎弁護人が（東条の威勢はなやかなころ、逓信院総裁だった人）が日本記者団に語った東条の述懐は、つぎのようである。<br />「世間のヒンシュクを買った当時の行為も事前になんらかの通知があり、時間的に余裕を持てばあんな失敗は演じなかったと思う。<font color="#FF0066">終戦後の閑居中<strong>自分のとるべき態度につき二つの立場を考えていた</strong>。第一は自由に発言する機会を与えられたならば堂々と所信を披瀝して戦争勃発の真相を明らかにし、すべての責任をとるつもりで考えをまとめ、書き物もしていた</font>。反対にもし身柄を外国に連行され、サラシものになるような場合を想像して<font color="#0066FF"><strong>自殺の準備にも万全を期した。まずピストルを肌身はなさず持ち、医師に心臓の上に墨で丸印をつけてもらっていた</strong>。風呂のあとでは書きなおしていた。<br />　軍刀ももちろん身近に置き、さらに<strong>愛用のパイプには青酸カリをつめて万一にそなえた</strong></font>。十一日の当日まで、戦犯の予告を受けなかったので、まだ余裕があると思っていた。ジープの音がさわがしいので、窓をあけてきくと正式逮捕だという。それで初めて米軍に抑留されると知ったわけだ。風呂場に入り、水をかぶって体を清め、新しい軍服を着、書斎の錠をかけた。ピストルでかねてのマークを射った。倒れた。ほとんど間髪をいれず応接間のベニヤ板をけって米兵が入って来たように思う。<br />　撃ちそこなった。<strong>年をとっているのでマークのところの皮が少し下方に垂れさがっているためか、ピストルを逆に撃ったので手もとが狂ったらしい。こめかみがいいと思ったのだが、悲惨な死に顔の姿を外国にもっていかれては恥だと考えた。</strong>・・・今日では初めの意思にもどって一切のことを腹蔵なく話す覚悟である</p></blockquote><br /><br /><br />と述べ、青酸カリやピストル、軍刀の準備、墨での目印のことを述べており、それらは各人が述べている証言と一致している。東條が自決に当たって周到に「準備」をしていた様子が窺える。<br /><br /><br /><br />元参謀本部総務課長榊原主計大佐が大森拘禁所にて東條大将との会談メモ<br />『東條英機大将大森拘禁所に於ける感慨』<br />（東條英機 / 東條英機刊行会　上法快男編　所収）<br /><blockquote><p>　責任は全部自分で負ひ悪者となつて畢る考へなりき。死を以て責任を明にする所存なりき。勝者は敗者に対し全能の神なり。敗者の声は狼の前の小羊の声に過ぎず、大東亜戦争の正邪は後世史家の批判に俟つべきものにして勝者の批判により決せられるべきものにあらず。<br />　<font color="#FF0066">予は臣節を全うする為死を以てお詫びせんとせるも</font>、<strong>此に関して下村大将と意見を異にし、同大将は最後迄生を有し堂々裁判に臨み正義の主張を述ぶべしと奨められたり</strong>。<br />　<font color="#0066FF">自決の方法に就いても諸種考へたるも（刀、其他）心臓を射つを確実と考へ、それとなく<strong>医者にも訊ね研究の上実施せるものなり</strong></font>。只アメリカの医術の進歩につき考へ違ひをなしあり。アメリカの医術は日本より十年は進みあり、心臓の穴を血の粉にて塞ぎ日本の医術にては到底絶望と思惟せざらるゝを救出せり。拳銃は玩具の拳銃と謂ひあるも誤にして陸軍の正式拳銃なり。</p></blockquote><br /><br /><br />これもまた自殺について周到に準備した点が分かる。<br /><br />ここにある下村陸相と東條との会談については後半で書きたい。<br /><br /><br /><br /><br />■遺書<br /><br /><br />東條は自殺の前に公的・私的に複数の遺書を認めていた。<br />遺書の存在もまた東條の自決が本気であったことを示すに十分な証拠となり得る。<br /><br /><br /><br />東條勝子<br />『戦後の道は遠かった』<br /> <blockquote><p>　<font color="#0066FF">遺書もそんな折に書かれたようです。日付は九月九日となっています。</font>この遺書を私は苦しかったあの月日、肌身はなさずにもちつづけました。他に巣鴨に入ってから書かれた二通の遺書とともに、何物にも代えがたい大切なもの。どなたにもお目にかけたことがございません。<br />「葬儀は東京にては行なわず、安真木（註＝九州の私の実家）へ帰りて子供たちのみにてなすべし。<br />　<font color="#0066FF">また遺骸は政府にて、あるいは敵に渡すことあるべし、快くこれに応ずべし、葬儀は頭髪や爪にて結構なり</font>、霊はその日のうちに安真木に先着しあり。<br />　自分に従って自決する如きは自分の名誉を汚すものなり、堅く禁ず、よく子供たちの行く末を見届けたる後来たるべし」<br />　またこうも書かれてあります。<br />「<strong><font color="#FF0066">魂は公的には国家とともに、私的には御身と子供の上にあって守るべし、安心せよ</font></strong>」<br />　主人はとうに死の覚悟をしていた。それは八月十五日以来ずっとそばにいた私には、ひしひしと感ぜられることでした。私も覚悟をしていました。それだからこそ、最後の最後までは、と思い、ずっと離れずにいたのですが……そしてあの日が来ました。</p></blockquote><br /><br /><br />　上記は東條の妻である勝子夫人の手記中の文章である（参照した手記は２種類『面影』と『戦後の道は遠かった』。このうち後者。この2つの手記ともに、東條の自決未遂に関する文量は多く、当日の勝子夫人の行動や感情がよく分かる）。ここで分かるのは東條が夫人に九月九日付けで遺書を認めていたという点、頭髪や爪を遺していた点である。家族への内々の遺書の存在は自殺に対する真剣さを裏づけすることになる。<br /><br /><br />　また、再びの引用になるが次男の輝雄氏にも<br /><br /><br />文藝春秋　2005年2月号　<br />東條輝雄　『父・東條英機に渡した青酸カリ』<br /><blockquote><p>後になって知人を介し、<font color="#0066FF">父が私に宛てた遺言が送られてきました</font>。</p></blockquote><br /><br /><br />とあって遺書を遺していることが分かる。<br /><br /><br />　長男の英隆氏にも遺書が書かれており、英隆氏の長女（つまりは東條英機大将の令孫）にあたる東條由布子氏の著書『 祖父東條英機「一切語るなかれ」』で、その現物の写真を公開しており、ここには<br /><br /><br /><blockquote><p><font color="#0066FF"><strong>一、父は茲に大義のため自決す</strong></font></p></blockquote><br /><br /><br />と明確に自決のことが書かれている（日付は九月三日）。これら私的遺書はどれも自決決行前の日付である点に注目していただきたい。勝子夫人や英隆・輝雄両氏への遺書は私的遺書だが、ここからも東條がこの自決について本気で対応したことが理解できる。<br /><br /><br />　自決時の公的な内容の遺書としては東京裁判で東條大将の弁護人を務めた清瀬一郎氏の著書（『秘録　東京裁判』）で紹介された「英米諸国人ニ告グ」で始まる遺書が有名である。<br /><br /><br /><br /><br /><blockquote><p>英米諸国人ニ告グ<br /><br />今ヤ諸君ハ勝者タリ、我邦ハ敗者タリ。此ノ深刻ナ事実ハ余固ヨリ認ムルニ吝ナラズ。然レドモ諸君ノ勝利ハ力ノ勝利ニシテ、正理行動ノ勝利ニアラズ。余ハ今茲ニ諸君ニ向テソノ事実ヲ列挙スルニ遑アラズ。然レドモ諸君若シ虚心坦懐公平ナル眼孔ヲ以テ、最近ノ歴史的推移ヲ観察セバ、思半ニ過グルモノアラン。我等ハ只ダ微力ノ為ニ正理公道ヲ蹂躙セラルルニ至リタルヲ痛嘆スルノミ。如何ニ戦争ハ手段ヲ択マズト言フモ、原子爆弾ヲ使用シテ、無辜ノ老若男女ヲ幾万若クハ十幾万ヲ一時ニ鏖殺スルヲ敢テスルガ如キニ至リテハ、余リニモ暴虐非道ト謂ハザルヲ得ズ。若シ這般ノ挙ニシテ底止スル所ナクンバ、世界ハ更ニ第三第四第五等ノ世界戦争ヲ惹起、人類ヲ絶滅スルニ至ラザレバ止マザルベシ。諸君須ラク一大猛省シ、自ラ顧ミテ天地ノ大道ニ対シ愧ズル所ナキヲ努メヨ。<br /><br />日本同胞諸君<br />今ハ只ダ承詔必謹アルノミ。不肖復タ何ヲカ謂ハン。<br />但ダ、大東亜戦争ハ彼ヨリ挑発セラレタルモノニシテ、我ハ国家生存、国民自衛ノ為、已ムヲ得ズ起チタルノミ。コノ経緯ハ昭和十六年十二月八日宣戦ノ大詔ニ特筆大書セラレ、炳乎トシテ天日ノ如シ。故ニ若シ世界ノ公論ガ、戦争責任者ヲ追及セント欲セバ、其ノ責任者ハ我ニ在ラズシテ彼ニ在リ、乃チ彼国人中ニモ亦タ往々斯ク明言スルモノアリ。不幸我ハ力足ラズシテ彼ニ輸シタルモ、正理公義ハ儼トシテ我ニ存シ、動カス可カラズ。<br /><br />力ノ強弱ハ決シテ正邪善悪ノ標準トナス可キモノニアラズ、人多ケレバ天ニ勝ツ、天定レバ人ヲ破ル、是レ天道ノ常則タリ。諸君須ラク大国民ノ襟度ヲ以テ、天定ル日ヲ待タレンコトヲ。日本ハ神国ナリ。永久不滅ノ国家ナリ。皇祖皇宗ノ神霊ハ畏クモ照覧ヲ垂レ玉フ。<br /><br />諸君、請フ。自暴自棄スルナク、喪神落胆スルナク、皇国ノ運命ヲ確信シ、精進努力ヲ以テ此ノ一大困阨ヲ克服シ、以テ天日復明ノ時ヲ待タレンコトヲ。<br /><br />日本青年諸君ニ告グ日本青年諸君、各位。<br /><br />我ガ日本ハ神国ナリ。国家最後ノ望ハ繋リテ一ニ各位ノ頭上ニアリ。不肖ハ諸君ガ隠忍自重、百折撓マズ気ヲ養ヒ、胆ヲ練り、以テ現下ノ時局ニ善処センコトヲ祈リテ熄マズ。<br /><br />抑モ皇国ハ不幸ニシテ悲境ノ底ニ陥レリ。然レドモ是レ衆寡強弱ノ問題ニシテ、正義公道ハ終始一貫我ニ存スルコト毫モ疑ヲ容レズ。而シテ幾百万ノ同胞、此ノ戦争ノ為メニ国家ニ殉ジタルモノ、必ズ永ヘニ其ノ英魂毅魄ハ国家ノ鎮護トナラン。殉国ノ烈士ハ、決シテ徒死セザルナリ。諸君、冀クバ、大和民族タルノ自信ト矜持トヲ確把シ、日本三千年来、国史ノ指導ニ遵ヒ、忠勇義烈ナル先輩ノ遺躅ヲ追ヒ、以テ皇運ヲ無窮ニ扶翼シ奉ランコトヲ。是レ実ニ不肖ノ最後ノ至願ナリ。惟フニ今後強者ニ跪随シ、世好ニ曲従シ、妄誕ノ邪説ニ阿附雷同スルノ徒、鮮カラザルベシ。然レドモ、諸君ハ日本男子ノ真骨頂ヲ堅守セヨ。<br />真骨頂トハ何ゾ。忠君愛国ノ日本精神是レノミ。</p></blockquote><br /><br /><br /><br /><br />　清瀬氏は福岡市に住む某氏から写しを借り、その結果、「確実な信用すべき人」からこの遺書が自決時のものであること相違なしということを確かめることが出来たという。「文意は東条発想のものに相違ないが、文飾は、当時日本言論文筆及び史学界の最長老某氏の添削を経たものであることの証言を得た」とも清瀬氏は記してあり興味深い（佐藤早苗女史は著書『東條英機　封印された真実』でこの遺書について言及し、この福岡の人は勝子夫人の妹が嫁いだ宇都宮氏であり、文壇の最長老とは吉川英治氏ではないかと書いている）。<br /><br /><br />だが、これには疑問もある。清瀬氏も研究したＲ・ビュートーの著作によれば<br /><br /><br /><blockquote><p>ＣＩＣによって押収された文章の中に、<strong>東條署名</strong>の正式のいわゆる最後声明があった。それは、その前日の日付、つまり<strong>一九四五年九月十日付</strong>になっていた。日本語で書かれていた現物は、行方不明となっているが、当時占領軍当局によっておこなわれた英訳は、東條が後世に伝えたいと思った事柄におそらく最も近いものであろう。</p></blockquote><br /><br /><br />とあり、九月十日付で書かれていたとしている。また、この後に書いてある遺書の英訳の内容紹介からは清瀬氏が提示する文章とは似ても似つかない。<br /><br /><br />下記はインターネット上で見つけた文章である。<br /><br /><br /><br /><blockquote><p>　遺書<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　臣英機<br />　一、宏大無辺ナル<br />　天恩ニ対シ伏シテ謝シ奉リ<br />　皇室ノ御安泰ト国家ノ隆昌ナランコトヲ謹テ祈念シ奉ル<br /><br />　二、大東亜戦争モ遂ニ今日ノ如キ不祥ノ結果ニ陥リ<br />　上辱（宸）襟ヲ悩シ奉リ下一億忠誠ノ屍ヲ積ミ尚ホ戦争ノ目的ヲ達シ得ズ光輝アル歴史ヲ汚スニ至リタル事眞ニ恐懼ニ堪ヘサル處ニシテ開戦当時ノ責任者トシテ深ク其ノ責任ヲ痛感スル處ニシテ茲ニ自決シ其ノ責ヲ痛感スル處ナリ。<br />　之レ亦幾多大戦ニ殉セル将士及其ノ遺族ニ報ユル途ナリト信ス<br /><br />　三、御殊遇ヲ蒙リシ身ヲ以テ敵国ノ裁断ノ辱メヲ受ケルハ国威ヲ傷ケ皇恩ニ報ユル所以ニモアラスト信ス。亦帝国国民ノ精神上ニモ悪影響ヲ及ホスモノナリ。帝国ノ正シキ行為ハ将来ノ歴史ニ依リ決スルモノナリト信ズ。勝者ノ裁判ニ依リ決スルモノニアラズト信ズ。敵側引渡ノ要求ニ対シテハ他二自ラ途アルベシ<br /><br />　四、大東亜戦争ハ戦破レタリト雖モ其ノ意義ハ萬世ニ照シ正シキヲ信スルモノニシテ又神州ノ精気奪フ能ワス。皇室ノ巌トシテ輝キ在ス限リ必スヤ民草ノ忠誠ノ下ニ萌○皇国興隆期アラン事ヲ信ズ。<br /><br />　五、帝国ノ前途ハ今後眞ニ多難ナル○○此ノ間一億国民ノ努力ノ下眞ニ名実備ハレル國體護持ヲ確保シ以テ悠久ナル帝国ノ光栄ヲ至ラセンコトヲ願テ止マス<br />　茲に遥カニ皇居ヲ拝シ天寿ノ萬歳ヲ祈願シ奉ル處○七生報国以テ国運ノ隆昌ヲ守ル奉ランコトヲ期ス<br /><br />　　昭和二十年九月十日<br /><br />　内閣総理大臣前官礼遇<br />　陸軍大将従二位勲一等功二級<br />　　　　　　　　　　　　　　　　東条英機<br /> <br /> <br />追記<br /><br />大東亜諸民族諸君ノ大東亜解放ノ為尽サレタル協力ニ対シ深ク感謝スルト共<br /><br />大東亜戦争モ遂ニ目的ヲ達シ得サリシヲ謝シ諸君ノ御多幸ヲ祈念シテ止マズ</p></blockquote><br /><br /><br />上記の文章はビュートーが紹介した英訳の内容と極めて酷似している。<br />また、升本喜年氏の『軍人の最期』における<br /><br /><br />－ クリック２０世紀 －<br />「軍人の最期　― 政治的将軍の生きざまとその死 ― 」<br /><a href="http://www.c20.jp/text/mk_gunji.html" target="_blank">http://www.c20.jp/text/mk_gunji.html</a><br /><br /><blockquote><p>九月十日付で、東條は遺書を書いている。<br />几帳面な東條らしく、その遺書は五項目に分かれ、文学的表現は少なく、簡潔な文体で天皇至上と愛国の思いを込めて綴られている。<br />要点だけを言えば――。<br />敗戦という結果となり、天皇陛下の宸襟を悩まし奉り、一億国民の忠誠の屍を積み、光輝ある歴史を汚すことになって恐懼に堪えない。<br />開戦当時の責任者として、その責任は深い。「茲ニ自決シ其ノ責任ヲ痛感スル處ナリ」と記している。<br />第三項目の中の「勝者ノ裁判ニ依リ決スルモノニアラズ」という文言や第四項目にある「大東亜戦争ハ戦破レタリト雖モ其ノ意義ハ萬世ニ照シ正シキヲ信ズル」などは、東京裁判における東條の主張の原点といえよう。<br />最後に、前途多難の日本国家に思いを馳せ、その興隆を祈念し、花押、捺印している。<br /><br />　　昭和二十年九月十日<br />　　　内閣総理大臣前官礼遇<br />　　　陸軍大将従二位勲一等功二級<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　東條英機<br /><br />追記として「大東亜諸民族諸君」と呼びかけ、民族解放に尽くした協力に対し、深謝しその多幸を祈念している。<br />ちなみに、東條がこの日、この遺書を書いていることを知る者はほとんどいなかった。<br />アメリカ側に押収されたまま、その存在が明らかになるには、半世紀以上の歳月を経なければならなかった。<br />数年前、ワシントンのアメリカ国立公文書館で、この遺書の原文コピーと英語の訳文があることが、共同通信の編集委員によって発見された。原文の所在は、いまだに不明である。</p></blockquote><br /><br /><br /><br />　という文章もあり、共同通信社が米国立公文書館で新発見したと報じられた遺書と同じであることが窺える。<br /><br /><br />　この遺書には<br /><br /><br />「上辱（宸）襟ヲ悩シ奉リ下一億忠誠ノ屍ヲ積ミ尚ホ戦争ノ目的ヲ達シ得ズ光輝アル歴史ヲ汚スニ至リタル事眞ニ恐懼ニ堪ヘサル處ニシテ開戦当時ノ責任者トシテ深ク其ノ責任ヲ痛感スル處ニシテ茲ニ自決シ其ノ責ヲ痛感スル處ナリ。之レ亦幾多大戦ニ殉セル将士及其ノ遺族ニ報ユル途ナリト信ス」<br /><br /><br />と書かれており、東條がこの戦争に対して、皇室に対して、戦没者に対して、遺族に対して、指導者としてどのように考えていたのかを窺わせるのに十分な記述である。阿南陸相の「一死を以って大罪を謝し奉る」と書いた血染めの遺書にも似た強い責任感が強く感じ取れる。<br /><br /><br />「大東亜諸民族諸君ノ大東亜解放ノ為尽サレタル協力ニ対シ深ク感謝スルト共大東亜戦争モ遂ニ目的ヲ達シ得サリシヲ謝シ諸君ノ御多幸ヲ祈念シテ止マズ」<br /><br /><br />と述べ、日本と共に東亜の繁栄・独立を勝ち取ろうと奮闘した諸民族に感謝をしている点も指摘しておきたい。<br />　<br /><br /><br />　東條は自殺に当たって複数の遺書を用意していることから見て、清瀬氏のものと共同発見のものと、両方ともが本物である可能性が有る。私はその真贋は別にして、両方が名文であると思うのだが、どうだろうか。<strong><font color="#FF0000">この両方の文章には公的な内容が含んであり、特に後者では東條の自決に当たっての心情がよく表現されていると感じられる</font></strong>。<font color="#FF0000">是非読んでいただきたい</font>。<br /><br /><br /><br />　　～後編に続く～<br /><br /><br /><br />10/28  遺書に関して若干追記しました。<br /><br /> ]]>
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<dc:subject>近現代日本史</dc:subject>
<dc:date>2009-02-06T19:00:00+09:00</dc:date>
<dc:creator>何某</dc:creator>
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