読売新聞 7月5日15時38分配信
日経新聞記者が不適切メール送信、民間団体に「ばか者」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080705-00000031-yom-soci 日本経済新聞編集局の記者が先月、戦争特集番組を巡ってNHKや下請け会社などに損害賠償を求めた民間団体・「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(バウネット)に対し、「ばか者」「あほか」などというメールを送りつけていたことがわかった。
日経新聞は事実関係を認め、同社幹部が先月24日、バウネットに直接謝罪した。
両者によると、バウネットの損害賠償請求が最高裁で棄却された翌日の先月13日、バウネット事務局に「取材先の『期待』に報道が従うわけないだろ。ばか者」「あほか。あんたがたの常識のなさにはあきれはてる」というメールが送りつけられた。メールアドレスの一部が「nikkei.co.jp」となっていたため、日経新聞に問い合わせたところ、編集局に所属する記者が送りつけていたことが判明したという。
それ見たことか、と言いたくもなる事件だ。このブログでは最高裁判決後に「
編集権と期待権」の問題について、判決文を適宜引用しつつ、各紙論調についてコメントをしていたのだが、私は日経の社説に傲慢さを感じていた。
日経は判決後の社説でこう述べている。
日経新聞
社説2 「編集の自由」重んじた最高裁(6/13)
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20080612AS1K1200312062008.html 横尾和子裁判長の意見――「期待、信頼を保護することの実質は、編集への介入を許容するおそれがあるものといわざるを得ない」「取材対象者の抱く期待、信頼を法的保護に値するものと認める余地はない」――が多数意見にならなかったのは残念だが、報道・表現の自由の基盤である「編集の自由」を保障する判例として歓迎したい。
ここで述べられている横尾和子裁判長の意見というのは最高裁の少数意見のことであり、一定の場合に期待権を認め取材先と取材元の権利に調整をかけた多数判決とは異なり、取材先の権利を認めず期待は法的保護に値する余地は一切ない、と断じた、
取材元・マスコミに極めて有利な少数判決のことである。
参考:横尾意見一部引用
期待,信頼を確認せずに番組の放送をした場合に,その内容が期待,信頼と異なるとして違法の評価を受ける可能性があるということであれば,それが取材活動の萎縮を招くことは避けられず,ひいては報道の自由の制約にもつながるものというべきである。
また,期待,信頼を保護することの実質は,放送事業者に対し期待,信頼の内容に沿った番組の制作及びその放送を行う作為を求めるものであり,放送番組編集への介入を許容するおそれがあるものといわざるを得ない。
私個人は、この意見は取材先を不当に軽く見ており、編集権の濫用や取材先への人権侵害を助長しかねない危険な意見であると見ている。このように取材先の権利救済を認めず、報道機関のみを保護しようとすれば取材先が自己防衛のために取材を忌避し、かえって言論の萎縮を生む事態にもなりかねない。取材元の常識外れの取材・編集を助長する可能性だって出てくる。期待の法的保護を広く認めすぎれば報道介入の危険性は増すが、期待権認定を狭くすることで十分妥当な結論へ持っていくことだって出来るはずである。
このような意見に対して、日経新聞の社説子は「多数判決にならなかったのは残念」と平気で主張したのである。
余りに取材先を軽視する論調に、これでは、この社説を見た取材先はきっと顔をしかめるだろうな、と想像したものである。「我こそは新聞様である。表現の自由を担うのだから、それ以外の権利は認めない。お前らは黙っていろ」という傲慢さがウッスラと見える。
そこへきて、この事件だ。
日経は本気で取材先を無視しようというのであろうか。確かに、この日経記者のいうように放送では放送法に示されているように多角的に公平に編集をしなければならない。取材先の嫌な報道も行うことだってあろう。今回のバウネットの件では原告側に期待権は認められなかったし、私個人としてもNHKの「国際法廷」なるものの当初の番組は偏向したものであったとも思う。
しかしそれとて、取材先の抱いた期待が完全に無視されることになれば、メチャクチャな取材や編集が罷り通ることになりかねない。一定の限られた場合に取材先を法的に保護し、制作・報道サイドに不法行為責任が生まれる場合だってある、その時には期待を「期待権」として認めよう、説明責任を認めよう、というのが判旨であったはずである。
判決文がマスメディアに対して促した取材先への配慮を完全に忘却し、「取材先の『期待』に報道が従うわけないだろ。ばか者」などと述べるのは実に問題である。取材先を尊重しつつ、自律した報道を行うようにするのがメディアの目指す道ではなかろうか。日経新聞社としてはホンネではどう思っているのだろう。
参照当該ブログ
編集権と期待権(若干追記)
http://nanigasi00toua.blog63.fc2.com/blog-entry-104.html
現在、毎日新聞の外国向け配信記事に対日イメージについて異常な誤解を生みかねない内容が記載されており、それについてネット上で大騒動が起きている。大手掲示板2ちゃんねるでは関連スレッドが歴史的なほど膨れ上がり、一部ではデモ活動も起きたようである。
この事件では配信された内容は常識外れで「捏造」とすら言えるほどの極めて異常なものであり、「新聞は報道・論評の完全な自由を有する。それだけに行使にあたっては重い責任を自覚し、公共の利益を害することのないよう、十分に配慮しなければならない」とする新聞倫理綱領とも著しく乖離した内容であった。そのため、毎日新聞を厳しく追求する運動が行われている。
報道内容は明らかに誤っており、これをチェックできずに垂れ流したことは勿論批判されてしかるべきである。しかしながら、毎日への感想としては私はそこまでである。記事を訂正し、誠実な謝罪文を英字で出し、当該記事が誤りであったということを正確且つ緻密に記した記事を挙げ、当該責任者や記者が何らかの戒めを受ければそれ以上は望まない。
関心がいくのは、やはりマスメディアとニューメディアの効果と関係についてである。マスメディアは情報を収集し、分析し、配信することで民主主義や言論の自由について成果を挙げてきたのが歴史的事実である。その反面で、近代人は時間的・金銭的・能力的な限界のためにマスメディアに情報活動を依存することで、メディアの従属化に置かれた。これは民主主義や言論の自由に対する、ある意味での逆機能であった。
この関係が大きく揺れ動いたのがインターネットメディアの誕生・高速化と端末の普及である。受信者から発信者へと変わった人々はマスメディアの情報をチェックし、不祥事を追求するようになり、マスメディアに対する不信や懐疑が実体験を伴って広く認識・共有されてきたのが現状である。しかしながら、依然としてマスメディアはそのノウハウや人的資源、ネットワークなどを通じて根深く情報流通の基幹となっている。
この
激しい対立と重い依存が生み出したのが今回の事件の根っこではなかろうか。私はマスメディアが公器として相応しい仕事をすることを期待する、ということも大切だが、インターネットメディアが彼らをチェックしていき独自の情報機能を持つことで依存関係から離れていくことも極めて重要であると考えている。こういったマスメディアを巡る問題はこれからもインターネット上で起こっていくだろうが、報道内容の批判である限り、それは好ましいことである。インターネットブログが先行して毎日の腐った記事を批判したことも明るい話であったし、インターネットを通じた問題指摘が相次いだことも好ましいことである。
これからの「情報」や「社会」を見る上で「インターネット」は最重要の観点だろう。