映画「靖国」について「中立性」のことに触れた。そこで述べた意見の要旨は次のようなものだった。
・ドキュメンタリー映画は本来的にメッセージ、意図を有するものである。そのためドキュメンタリーが政治的テーマを扱えば「(助成対象から排除される)政治的宣伝意図を有する映画」と「(助成対象に含まれる)政治的テーマを単に扱う映画」を区別するのは難しくなる
・だが、「政治的宣伝意図を有する映画」と「政治的テーマを扱う映画」を区別しなければ助成の適否について判断できない。区別が曖昧だと応募者も困ってしまう。だから、なるべく明確な基準・要件が公表されなければならないが、現在、設定・公表されてはいない
・故に独断ではあるが要件を設定して判断することにする。要件は政治性、中立性、事実性、意図目的、その他個別の事情などを総合的に見て判断する
・中立性が著しく損なわれており、中立性が政治的目的や係争中の裁判・政治闘争にかかわっている場合は政治的宣伝意図を判断する材料、要件になり得る
というものであった。
ここでいう「中立」は何も「市井のドキュメンタリーは全て中立でなければならない」という意味で述べたものでは勿論ない。基金が定める「政治的宣伝意図のある映画」と「政治的テーマを単純に扱った映画」の区別の方法を模索して、「ドキュメンタリーが中立でないのはもちろんなのだが、その中立でないこと、偏り、が著しく顕れていることは政治的宣伝意図の有無を判断する材料になる」と述べているだけである。
ところで、「ドキュメンタリー」とは一体何を指すのであろうか。「ドキュメンタリー」の定義とは一体何なのであろうか。
「ドキュメンタリーとは何か」、そう問われて定義づけるのは実のところ難しい。ドキュメンタリーの訳語においても「記録映画」、「文化映画」、「教育映画」、「社会映画」、「観察映画」と様々な訳が当てられてきた経緯があるし、「ドキュメンタリー」の定義もそれぞれの映画人・放送人によって異なっている。
例えば、こんな具合だ。
大辞泉(国語辞典):実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組や文学作品など
wikipedia:文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」
ジョン・グリアスン:「台本が存在せず、被写体に演技を強要しない映画」、「現実の創造的劇化」
ポール・ローサ:「人びとの生活のあるがままの現実を、創造的に社会的文脈において解明するための映画メディアの利用」
フランシス・フラハティ(ロバート・フラハティの妻):「ドキュメンタリー運動は、まず社会的、教育的目的を前提に考えられています。それは、有名な映画の多くが、ちょうどハリウッド映画がチケットの売上げを目的にしているように、政治的、啓蒙的な目的と先入観をもって作られているようなものです。(略)ところが、そうではない映画も存在しています」
他にも引用すれば様々にあるが、この辺でやめておこう。「ドキュメンタリー」の定義は実のところ、時代や個人によって異なっている。グリアスンは「ドキュメンタリー」という言葉をこの種の映画に初めて使った人物だが、彼がドキュメンタリーに求めたものは社会的な啓蒙であった。「ドキュメンタリーはハンマーであって鏡ではない」、とする言葉が端的に当てはめられる流れがあった。その流れから一歩距離を置いたところにいたのが、『極北の怪異』で有名なロバート・フラハティだった。ドキュメンタリーの父と謳われるフラハティとグリアスン両人の定義や映画への態度すら違っているのだ。
東京工科大学メディア学部「デジタル演出プロジェクト」の調査では日米の主要ドキュメンタリー制作者のうち75%が「制作者間にドキュメンタリーの明確な定義はない」と答えている点も「ドキュメンタリー定義の曖昧性」を裏付けていると見ることが出来る。
このように様々な態度があり得るドキュメンタリーだが、一般的には「客観性や中立性を伴った記録映画」と理解されがちだ。しかし、それはアヤフヤなものである。ドキュメンタリーは歴史上、プロパガンダと密接な関係を築いてきたし、グリアスンやローサの定義にあるように「啓蒙的」「政治的」「社会的」な文脈・目的を要するものであった(だからこそ、プロパガンダに近接・類似している)。またそれとは違った見解を持つフラハティのつくった映画だって「(現代にいう)ヤラセ」があるので、客観的だとは言い難い。
ドキュメンタリー作品はそもそも論としてカメラと編集を通して制作される映画である。それゆえ映画制作はどんなに客観・中立を努めたところで必然的にカメラマンや編集者や監督の意図目的が反映されることになる。それに対して、「絶対的中立・客観を守れ」とは言えないのはある意味当然である(実現不可能な要求は出来ない)。また、要求する中立が芸術性やメッセージ性を剥奪する可能性もあるので過度の要求は好ましくないとも言える。
だが、しかし、「ドキュメンタリーよ、中立であれ」とはいえなくとも、助成金の判断に中立性を持ち込むことは出来るのである。上記の通り、ドキュメンタリーはプロパガンダ(政治的宣伝意図を有する映画)と密接な関係を有している(中立性を著しく欠いた映画はプロパガンダに近接してしまう。)。そのことは、リーフェンシュタールの『意志の勝利』を持ち出すまでもないだろう。
また、ドキュメンタリーはルポルタージュのような客観的なドキュメントをも分類上含めることも出来る。絶対的な客観、中立は無理でも、相対的な客観や中立を目指すことは出来る。中立や客観を心がければプロパガンダ性はかなり希釈できるわけである。
助成金の交付要件から「著しく中立性を欠いた作品」を外してもなんら問題ではない。プロパガンダ性の判断材料に「中立性」は十分なり得るのである。
※追記:助成金交付からの排除が言論市場への参入制限にならないことにも注意を要する
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こう、ドキュメンタリーと映画「靖国」について言うのには訳がある。サイドバーにリンクされている「
考察NIPPON」さんが紹介した『
「期待権」って?』という番組構成師さんの記事に大変驚いたからだ。
「
考察NIPPON」さんは所謂「期待権」について靖国刀匠だけでなくバウネットやパル判事の息子さんにも主張妥当性が見出せるとし、同一状況にあるにもかかわらず自分のイデオロギーと立場に合致した勢力の不満のみを「期待権の侵害である」と支持して、他方を排除・否定する行動の愚かしさを指摘する文脈で当該記事を紹介している。
私は編集権が無制限に許される絶対的な権利などとは少しも思っていないので、特別な状況(例えば取材元が取材先に編集内容を確約しながら取材内容を真逆に歪曲するなど取材過程で取材対象に特定の期待を抱くのもやむを得ない特段の事情をつくった場合)にある取材先の期待を法的保護に値するものとして「期待権」として認めることには賛成している。バウネットであろうが、靖国刀匠であろうが、「期待権」を支持したい(もちろんバウネットの起こした裁判はこれだけが争点ではない)。
ところが、番組構成師さんは取材先が「期待権」を持つと、自由な編集が出来ない、時には取材内容と異なった編集がなされるのは普通であるから、これは編集・報道への萎縮になるとして反対している。この意見も報道機関によっては強く主張されている見解であるし、現実に取材する人間によっては自由が束縛され、利害に直結する問題なので反対することは分からないでもない。
だが、編集権も取材権も何も絶対的な権利ではない。期待権だって同じことである。要はバランスであり、編集権を尊重しつつも、「特別事情下」では期待は法的保護を受けるという考え、判決なのであって、編集よりも期待の方が常に尊重されるべきであるという判決ではないのである。取材先に誠実であれば「特段の事情」を回避することだって取材・編集サイドは可能だ。
まぁ、話は脱線した。期待権の話に驚いたわけではないのである。驚いたのは以下の文章だ。
番組作りの中心にあるのは、あくまで「制作者の制作意図」である。
その制作意図を目に見える形とするために、取材は多方面に、多角的に行われねばならない。制作意図に合致する対象だけでなく、まったく逆の意見を持つ人・団体にもその思うところを述べてもらわなくては、番組としてのふくらみが生まれない。何より、制作意図を鮮明に、明確にすることができない。
「こんな風な番組にしたい」というディレクターを中心としたスタッフの意志が最初から存在し、その意志と狙いを具現化することを目指して取材は進められる。
だから、ドキュメンタリーは“ありのまま”を伝えるものではない。制作者側が伝えたいこと、表現したいことを、取材対象者の力を借りて番組という形に作りあげたもの。制作者側の意図によって作りあげられた、いわば“作品”なのだ。
そのため、取材された人たちそれぞれが抱く期待に反する内容となることはかなりの確率で起こり得る。その際、取材対象者おのおのが『期待権』を主張すると、取材という方法自体が成り立たない。
例えば、制作者側が「慰安婦が誕生した裏面を探る」こと描こうとしたと仮定する。その場合、慰安婦問題に取り組んでいる人・団体だけを取材しても奥深い番組とはならない。「慰安婦など存在しない」と主張する人・団体にもきちんとした取材をし、その主張する根拠など多彩な意見を聞くことが必要不可欠だ。
しかし、その際、番組が完成したとき、「慰安婦など存在しない」と主張する人・団体が「取材時に期待した内容に反している」として『期待権』を持ち出したらどうか? 「主張が肯定的に取り入れられると期待し、だからこそ取材に協力した。それが無下にされた」と主張したらどうなるのか?
制作者側は「慰安婦は存在した」ということを前提に番組を作っている。「慰安婦など存在しない」と主張する人・団体が納得するような内容にならないのは、取材をする時から明白なことなのだ。しかし、こうした場合にも『期待権』が成り立つならば、制作意図とは逆の方向性を持つ人・団体に対する取材は困難にならざるを得ない。
実務からいえば、人件費や時間、あるいは取材用テープなどの経費を節減するために、先に結論(=「意図」)を決め、予定調和の取材をし、取材先の発言を単なる演出材料として見なす、ということは当然にありえる(節約になるし、簡単だから)。取材機関や取材資源が決まっている場合、放送日時が決まっている場合、取材前の企画書が厳格で詳細な場合など当り前にこういう制作は行われるだろう。
しかし、である。これでは、取材先にも制作態度にも視聴者にとっても誠実な作品とはいえない。「慰安婦が誕生した裏面を探る」と意図を設定したならば、「0から」の視点に立って各論を比較・検討すべきであって、結論は柔軟に変化させるべきなのである。だからこそ、「編集権」や「取材権」といった自由も光彩が放たれ取材先への抗弁になりえる。「意図と結論は決まってました。取材は演出です。裏切っても私は知りません」では誠実どころの話ではない。「制作者のみによる作品」ではなく「制作側が主導する取材先との協働作品」、せめて「取材先から得た材料からの0からの創造」ぐらいの感覚が見たい、と私は思う。
また、予定調和の取材と編集から生み出されたドキュメンタリーは面白くもなんともない、とも私は思う。タレントの旅番組やグルメレポートぐらいなら良い。だが、政治的・社会的・啓蒙的な作品はそれでは面白くはならないと思う。取材行為や編集行為を単なる結論を演出するためだけの道具にし、結論を導き出すために自己目的化してしまうならば、そのようなドキュメンタリーは単なる制作者のエゴに基づくプロパガンダで終わってしまう。上記のような感覚が当然に放送業界人にあるなら恐ろしいことである。
しかし、幸いなことに番組構成師さんは
取材対象者の語った内容をガラリと変えてしまうようなインタビューの切り刻み方は、もちろんしない。取材対象者のインタビューを巧妙につなぎ、欲しい内容の言葉に作り変えたりはしない。取材対象者が語った意味、それが変わらないよう、常に気を配っているつもりだ。
しかしそれでも、人が述べた言葉を、制作意図に合致させるために切り張りしていいのかという疑念が心から消えたことはない。
という感覚、痛みを自覚している。業界の感覚に驚く反面で、この煩悶に救われたような気がした。
ハンディカメラでもある程度の映像が撮れ、パソコンを使って素人が編集出来、作品を無料でアップロードして世界中に公開できるサイトが存在している中で、放送業界・映画業界の「制作特権」は揺さぶられるに違いない。(時間と資金をある程度使える)個人が総表現化する時代にあって、ドキュメンタリー制作を専門とする業界も相当影響を受けるだろう。その揺れの中で不誠実な作品が生き残れるか、疑問である。
2008/04/18 16:20 文意を損なわない範囲で追記と改訂